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【小説】セームセーム・バット・ディッファレン

こちらは八幡謙介が2013年に発表した書籍です。

詳しくは八幡謙介の小説サイトをご覧ください。

セームセーム・バット・ディッファレン


 機体が強烈に揺れてあちこちから悲鳴が起き、「ああ落ちる、死ぬ!」と目を瞑った瞬間、股の間に湿り気を感じて、終わったなと脱力した。
「ア、ゴ、ゴメンナサイ!」
「え?」
 窓側の席に座っている中国人風の女の子が、カップを手にしたままおろおろしている。飛行機は揺れながらもなんとか飛んでいて、僕は色んな意味でほっとした。
「ああ、えっと、大丈夫……」
 前の席の背中についているポケットからティッシュを取り出して、ジーンズに広がった沁(し)みを申し訳程度に拭き取った。無言で作業する僕が怒っていると思ったのだろう、女の子は再度、「ゴメンナサイ、あの……おカネ、払いますから」と、たどたどしい日本語で呟いた。
「大丈夫、大丈夫! 中までは沁みてないから。気にしないで」
 とりあえず彼女を安心させるため、目を見て、笑顔でそう返した(本当は中までしっかり沁みて強烈に不快だったけど)。ちゃんと見ると、色が白く、目が厚ぼったくて可愛い。女の子は少しだけほっとしたようだ。
 やがて小刻みな揺れも収まり、ベルト着用のサインが消えて、僕は中まで拭くためにトイレへと向かった。前からは好奇の視線を股に、後ろからは心配の視線を背中に感じながら。


「ホントに、ゴメンナサイ、だいじょぶ、ですカ?」
 席に戻ると、女の子はまた、たどたどしい日本語で謝ってきた。まだ少し怯えた様子で、僕はかえって悪いなと感じ、改めて笑顔で問題ないことを告げた。彼女は続けて、
「えと……もし、Shanghaiにクルでしたら、ワタシ、お礼します」
〝上海〟だけやたら発音がいいことに、変に感心した。やっぱり中国人みたいだ。
「お礼? ああ、『お詫び』ってこと?」
 彼女はそうそうと、小刻みに顔を縦に振る。
「いいよ、本当に、なんでもないし。それに、行くの上海じゃなくて、カンボジアだから」
「カンボジア!」
「そう、カンボジア」
「でも、ヒトリ? 危なくない?」
 心配そうな顔つきに、ぐっときた。僕は自信満々に、
「全然、今はもう治安も安定しているし、衛生状態もよくなってるから、普通の観光と同じだよ」
 と、事前に集めた情報をそのまま伝えた。すると彼女の眼差しが、心配から尊敬に変わった。それとは逆に、僕の心は急速に不安で満たされる。本当に、一人でカンボジアを旅して大丈夫なのだろうか?…… 
 変な間が空いたので、僕は不安を振り切るように彼女に訊ねた。
「あの、お名前は?」
「メイ、トトロと同じデス」
「あ~」と頷きながら笑うと、彼女は満足そうにした。こう言えば日本人受けするということを知っているんだろう。
「僕は、ユウ。『優しい』のユウ」
「名前とイッショ、やさしいデス」
 メイはそう言って口をすぼめたまま微笑んだ。
 そこから、お互いのことを話した。僕は大学二年で、都内に一人暮らし、彼女とは半年前に別れた、海外旅行は初めて、バイトはスタバ、好きなアニメは『エヴァンゲリオン』(本当は『けいおん』だけど)。メイは十九歳、去年から出稼ぎに来ていて、横浜在住、日本語を勉強しながら働いている、宮崎アニメは初期の方が好き、彼氏はいない、夢は両親に家を買ってあげること……。仕事の内容はメイからは言わなかった。水商売かもと思って、当たっていたらちょっとショックだから、詳しくは訊かなかった。
 自己紹介がてらの雑談を一通り済ませたところで、まもなく上海到着のアナウンスが流れた。退屈しているときほど時間が長く、楽しいときほど短く感じられるという脳の意地悪な構造を僕は恨んだ。楽しいときは、時間はもっと間延びするべきだ。
 機体は無事着陸し、僕はもう少しメイと話したくて、〝荷物降ろし競争〟に半ばわざと出遅れた。エコノミーの狭い通路は瞬く間に人で埋まり、メイを見ると、彼女は西洋人のように肩をすぼめた。おどけたしぐさが可愛かった。
「ゴメンナサイ、中国人、いそがしいデス」
「ううん、全然、急いでないし。荷物降ろすからどれか教えて……って、みんな行ってからじゃないと無理だね」
「アリガトウ」
 メイはそう言って微笑んだ。僕はまた急速に心が冷めていくのを感じた。二度と会わないであろう中国人の女の子にさえ、全速力で『いい人ランキング』上位に駆け上がろうと必死な自分。ずっとこのまま、〝いい人〟でいさえすれば、何もかもうまくいく。ほんの少し前までは、本気でそう信じていた。
「ユウ……さん?」
「え? あれ? ああ、ゴメン!」
 メイの言葉で我にかえって通路が空いていることに気づき、僕は慌(あわ)てて立ち上がった。
 結局、彼女とはアドレスも交換せず、謝罪やら、お礼やら、励ましやらの言葉を交わして分かれた。少し寂しかったけど、幸先の良い出会いに旅の充実を予感した。それから、レストランやパブ、各種ショップには目もくれず、次の搭乗口へと直行した。
 搭乗口付近の椅子に座り、バックパックを隣の席に置いて、時間を確認した。あと三時間弱は待たなければいけない。あちこちから聞こえる、怒鳴りあいのような中国語の会話をBGMに、僕は慣れない思索に耽ることにした。


「カンボジアっすか?」
「おう、面白ぇぞ。安いし」
 保坂先輩はそう言って勢いよくビールを呷(あお)った。僕はこの旅慣れた――といっても、直接旅の話を聞いたことは今までになかったけど――先輩に、春休み一人でどっか旅行に行きたいんすよね、できれば海外に、と相談を持ちかけると、そのまま激安居酒屋に連行されたのだった。
 先輩のジョッキにはまだビールが残っていたけど、心配なのか、テーブル脇のタッチパネルを慣れた手つきで操作し、追加を注文した。一旦手を離してから、思い出したように、
「あぁ、お前、何かいる?」
「そうですね、おつまみ、枝豆以外で何か」
 言わなければ保坂先輩は、際限なく枝豆を注文する。操作が終わるのを確認し、僕は改めて問い直した。
「でも、カンボジアって、究極じゃないですか? 地雷を踏んだらサヨウナラって感じ……」
 保坂先輩はじろっと僕を見て、不敵に口角を上げた。
「お前もTVにやられてんな。地雷に貧困に、ストリートチルドレン、学校や、井戸さえない村、あげくにチャイルド・セックスってか」
 枝豆を職人的な手捌きで剥きながら、
「あんなのはずっとずっと前のハ・ナ・シ。今はもう普通の、ちょっと貧しい観光地だよ。観光しにいって地雷踏むなんてあり得ねぇし、インフラはずいぶん整備されてきている、まあ、貧しいっちゃ貧しいけど、俺ら目線で見るからであって、現地人にしちゃあ右肩上がりさ。それに、悪名高いチャイルド・セックスも今は闇の闇、ロリコン紳士たちはとっくによその国に鞍替えしてるよ」
 ビールと枝豆、唐揚げが来た。僕は終わった皿を店員に渡し、テーブルをお絞りでさっと拭いた。
「でも、治安とか大丈夫なんですか? 伝染病とかも」
「変な時間に変なとこに行かなきゃ問題ねぇよ。日本が安全つっても夜中二時に歌舞伎町うろうろしてたらヤバいだろ? まあ、そんなとこだ。あとは、水道水と生ものは控える、調子こいて川で泳がない、女買うならゴムは必ず付ける、それだけ気をつけてりゃ十分!」
 僕の中のカンボジアのイメージが一瞬で崩壊した。それまでは、一般的な日本人と一緒で、マイナスイメージしか持っていなかった。もし行くとしたらボランティアで、それなりに覚悟を決めて。
 保坂先輩はビールをあおり、
「TVのドキュメンタリーとかでさ、芸能人が向こう行って、ボランティアしたり、地雷の被害に遭った子供なんかと触れ合って泣いてみたり、水道のない村で井戸掘ったり……。俺さ、ああいうのが一番向こうのためになってねーんじゃねぇの? って思うわけ。あれ観た人はどう思うよ? 優はそんなの観たことある?」
「ええ、何度かあります。……どう思うかって? そうですね……、貧しさや不条理の中でも頑張って生きている子供たちと日本の有名人が触れ合って、――」
「それ!」
 保坂先輩は、枝豆でぴっとこっちを指した。僕は緑色のちっちゃな剣を見やった。
「カンボジアの貧しさとか、不衛生さとか、危険さとか、そういったとこばっかが強調されるんだよ。いや、故意に強調させてる。何故か? それはだなあ、」
 僕は酒臭くて妙に粘っこい唾を呑んだ。保坂先輩は思い切り顔をしかめて、
「カンボジアが貧しければ貧しいほど、不衛生で、危険であればあるほど、そこで何かする芸能人のイメージアップになるからだよ! あーいう番組ってのは、マイナスイメージありきだから、カンボジアのリアルが全然わかんねぇの。実際行ってみればそんなでもねぇから」
「ああ~、なるほど……」
 確かにそうだ。メディアで取り上げられるカンボジアは、いつも貧しく、危険で、不衛生、僕は完全にそれを刷り込まれていた。カンボジアの楽しさ、美味しいもの、美しいものって……浮かんでこない、いや、待てよ、そういえば……
「先輩、そういえば、アンコール・ワットって、タイでしたっけ? カンボジアでしたっけ?」
 すると保坂先輩は一瞬目を見開いてから、がっくりとうなだれた。
「お……ま……え、俺はこんな後輩を持って悲しいよ。カンボジアだバカタレ。まあいいや、俺が言いたいこととつながったから、要するにだな、カンボジアのために何かしたいとかって考える野郎どもは、アンコール・ワットやあのへんの遺跡群の美しさとか壮大さ、その周辺のインフラや、ちゃんとしたホテルや美味いレストラン、そういったのをきちんと紹介するべきなんだよ。そしたらそれを聞いたやつは『楽しそう、行ってみたい!』って思うだろ? だろ? そういうイメージが定着したら観光客が増える、観光客が増えればカンボジアが豊かになる、これ以上のボランティアがあるか? つまりだ、お前は美味いもん食って、美しい遺跡を観て、楽しむだけ楽しんでくりゃいいの。それが最高のボランティアなのさ! キリングフィールドとかトゥールスレン、地雷博物館なんて辛気くさいもんは飛ばして結構、まあプノンペンは一泊で十分だな、シェムリアップには最低でも三泊。そんで――」
 なぜか、僕はもうカンボジアに行くことになっていた。でも、悪くなかった。
 保坂先輩はそこから、延々とバックパッカーの心得のようなものを説き始めたが、だんだん呂律(ろれつ)が回らなくなってきて、後半はほとんど何を言っているのか分からなかった。


 目の前を横切った中国人女性に一瞬メイを思い出し、思考は寸断された。時計を見るとまだ十五分程度しか経っていないけど、気がつけば辺りでは、中国語の他に英語やよくわからない言語が混じってきている。だだっ広いロビーを改めて見渡すと、また不安がよぎった。本当に一人で大丈夫なのだろうか? と、
 ――ユウハ、イイヒトダカラ。
(え?)
 僕は飛び上がりそうになって、急いで辺りを見廻した。やっぱり、外国人しかいない。よほど挙動不審だったのだろうか、向かいに座っている中国人の太った男性が怪訝(けげん)そうに僕を見つめている。
「優は、いい人だから……」
「え?」
 下を向いたままマフラーをいじりながら、璃(り)乃(の)がそう呟いた。店内には、売り出し中の歌手の、一足早いウインターソングが流れている。
 メールの感じから、別れ話だということは察しがついていた。けど、まさかこんな風に切り出されるとは思ってもみなかった。僕はもう一度、どうしても確認したくて、テーブルの上のものに順繰りに目をやりながら、「えと、その……いい人だから別れたい……てこと?」と恐る恐る訊ねた。璃乃はうつむいたまま、黙って頷く。失恋の事実よりもその理由の方がショックで、僕は気が遠くなりそうだったけど、肩にぐっと力を入れてなんとか持ちこたえた。そして、一度深呼吸すると、彼女の考えを尊重し、受け入れる、けどもう一度やり直したくなったら気軽に相談してほしい、自分はすぐには彼女を作る気はないから待っている、でも、もし璃乃に新しい彼氏ができたときは仕方ないから諦める……といったことをしどろもどろに告げた。もちろん、本心ではなかった。しかし、話を聞く璃乃の表情は、だんだんと険しくなってき、最後はほとんど、蔑むような目つきで僕を睨(にら)んでいた。誠意を持って別れ話に対応しているのに、どうしてこんな態度を取られなきゃいけないんだろう? 僕の話が終わると、璃乃は待っていたかのように「じゃあ」と立ち上がり、テーブルの伝票に手を伸ばした。その手を僕は、自分でも驚くほど素早く、荒々しく掴んだ。
「最後ぐらい払わせて、いつもみたいに」
 すると彼女は大げさに溜息をついて、
「そういうの、もういいから」
 力が抜けた、というよりは、腕そのものが消えた気がした。僕の手からすり抜け、伝票を手にしたまま無言でレジに向かう璃乃の背中を、呆然と眺めていた。


 あのとき、世界が崩壊した。同時に、世界の外側が一瞬見えた気がした。この退屈で凡庸(ぼんよう)な、どこまでも、どこまでも続く果てしない日常の外にある世界……
 それが旅の理由だと言えば保阪先輩は僕になんて言っただろう? そう考えて一人、頬を緩めた。
 ふと目をやると、窓の外にはターミナルの無機質な光の群が夜に煌(きらめ)いていた。それはどこか、日常的な人の営みを想わせる堅実さがあった。僕はポケットからiPodを出して、機内用に入れた『お気に入り』を再生した。


 二十三時過ぎ、飛行機はプノンペン国際空港に無事到着した。機内からボーディング・ブリッジへと一歩出た途端、甘い夜の熱気が僕を包んだ。ロビーに出てから、一旦着ていたパーカーを脱いで、ちょっとダサいけど腰に巻いた。長袖の腕を下腹でキュっと締めると、柔道の帯みたいで気合が入る。とりあえず、ゲストハウスまで無事に着く!
 ベルトコンベアで流れてきたバックパックを背負い、入国審査へと向かう。褐色の四角い顔の係官がパスポートを調べている間、僕は彼の分厚い唇に見とれていた。あちこちに顔面が掘られた遺跡をガイドブックで見たけど、あの彫刻そっくりの唇だ。係官は、判子をリズミカルに何度か押し、パスポートを僕に返す際、無表情で「ヨウコソ」と告げた。なんとも締まりのない旅の始まりだったけど、気分は高揚していた。
『まずは空港から宿までのバイタク選びだな』
 保坂先輩の赤ら顔が浮かんだ。僕はあれから何度も〝レクチャー〟と称して、飲みに付き合わされていた。
『タクシーは〈バイタク〉、バイクのタクシーな、これが基本。一人ならトゥクトゥクや四輪のタクシーは乗らなくていい。トゥクトゥク? ああ、観覧車みたいなのをバイクで引っ張る乗りモンだよ。到着は? 夜か……。ならバイタクは、最初はまずおとなしくて頼りなさそうなやつを選べ、そこはほかのやつよりちょっと高くてもいい。安さにこだわって最初に変なやつに当たるとやっかいだからな。そいつが安全運転で親切なやつなら、翌日の観光も頼めばいい』
 先輩のアドヴァイスを反芻(はんすう)し、僕はもう一度小さく気合を入れなおして、狭いロビーから一歩、外に出た。すると、独特の匂いと共に、今まで感じたことのないような、分厚くて、甘ったるい熱気が僕を包んだ。暑い。キョロキョロしていると、褐色のどこかだらしない服装をした男たちが僕に気づいて、一斉に声を上げながら近づいてきた。皆、絵に描いたように怪しい……
「サー、taxi? サー」
「ミスター、ミスター!」
「ワタシ、ヤスイ、オニイサン」
 囲まれた。それぞれ、カタコトの日本語や訛りの強い英語でしきりに自分をアピールしている。なぜか服装は皆同じで、長袖のシャツの裾を出し、下はちょっと大きめのスラックス、足元はサンダル。それにしても、気の弱そうな、優しそうな人がいない。仕方ない、カンでこのうちの誰かに決めようか……
 と、ロータリーにボロボロのホンダが停まった。運転席から僕を囲んでいるやつらと同じような格好の男が出て、トランクを開け、大きな荷物を降ろした。遅れて後部座席から白人女性が一人出てき、荷物を降ろし終えた運転手に何か告げている。別れの挨拶だろうか? 男は終始笑顔で、白い歯が清潔だった。女性が去ると同時に、僕は彼の元に引き寄せられるように歩を進めた。
「ハロー」
 運転手は驚くでもなく、さっきと同じ笑顔で、
「Hello sir,taxi?」
「イエス、あー……キャピトル・ゲストハウス、ユ・ノウ?」
「Yes sir, but――」
 彼は流暢な英語で僕に何かを話し始めた。なんとか「expensive」という単語だけ聞き取ることができた。どうやら、四輪だからバイクより少し高いということを説明してくれているらしい。まっすぐな瞳が熱帯の夜に映え、どこか夜行性の鳥を連想させる。直感で決めた。
「オーケー、ノー・プロブレム!」
 僕は笑顔で応えて、彼のホンダに乗り込んだ。保坂先輩、ゴメン。


 道路は意外と広くて、綺麗に舗装されていた。運転もスムーズだ。僕は少し安心して、前のめりの体勢をやめ、シートに深々ともたれた。
 運転手は英語で自己紹介してくれた。名前はカンボジア独特のものなのか、妙なリズムで、よく聞き取れなかった。こちらも「マイ・ネーム・イズ・ユウ」と返すと、「Oh! your name is me!」と言って笑った。僕も釣られて笑った、意味は分からなかったけど。
 笑うと少し不安が晴れた。やっと外を見ると、クネクネしたクメール文字や、見慣れない漢字の看板を掲げた建物が密集している。市街に入ったみたいだ。町並みは雑然としてはいたけど、思ったより綺麗で、それほど危険な香りもしなかった。街灯も設置されている。ネットでは、〈プノンペンの町並み〉と題した、バラックが立ち並んでいる小汚い通りの写真があったけど、そういった道は避けて走っているのだろうか?
 運転手(結局名前は分からないまま)は、僕の英語力を理解したのか、口をつぐんでいる。それがちょっと悔しくて、何か話そうと単語を頭の中で組み立てているうちに、車は大通りから少し狭い路地に入って、停まった。
「This is Capitol Guest house, sir.」
 そう言われて、彼が指をさした方向を見やると、入り口に格子が下りていて、その先には薄暗い階段が見える。入れない! 僕は一瞬でパニックに陥った。「え? ちょ……何で? 何で!」と小声でわめきながら車を飛び出し、入り口の前まで来て呆然と立ち尽くす。深夜のカンボジアで迷子? どうしよう、保坂先輩……。すると、運転手が僕の傍(かたわ)らにそっとバックパックを置いて、壁についているチャイムを鳴らし、僕の肩を叩いて笑った。ほどなく、男が眠そうに階段を降りてきて、簡単に格子を上げた。施錠はされていなかった。
「Check in?」
「イ、イエス!」
 急いで運転手に料金を払い、礼を言って、僕は眠そうな男の後から薄暗い階段を上った。後ろで車が走り去る音がした。
 コンクリートの階段を上ったところに机があり、その前にある踊り場で男らが数人雑魚寝をしていて、面食らってしまった。一人分スペースが空いている。彼もここで寝ていたんだろう。恐るべし、クメール人。
 チェックインを乱雑に済ませ、僕はまた階段を上って、部屋に入った。鍵を内から閉めて、荷物を置いた途端、疲れと安心感で強烈な眠気に襲われて、そのままベッドに倒れ込んだ。シーツからはほんのりと、変な匂いがした……


 クラクションの音にふと目を覚ますと、強烈な暑さに辟易(へきえき)した。全身、汗だくだった。うつ伏せの状態からもそもそと正座して、ようやくここがカンボジアだということを思い出した。シーツに汗で沁みができている。服を脱ぎながらぼんやり部屋を見渡すと、汚い。壁はくすんだ色であちこち剥(は)げてるし、シーツや枕カバーもよく見たらうっすらと黄ばんでいた。窓には鉄格子がはまっていて、遠くからひっきりなしにクラクションの音が聞こえる。素っ裸で窓に向かい、外を眺めると、
「すっげ……」
 思わず声が漏れた。少し大きめの十字路の中心にバイクや車が密集していて、それぞれがそれぞれの進行方向を主張しながら、全体がゆったりと渦のようにうねっている。信号はなかった。無事真ん中を抜けた者は、一気にスピードを上げ走り去って行く。だいたいがカブらしき原付で、誰もヘルメットはしていない。僕はそれを見るなり早く外に出たくなって、とりあえず寝汗を流しにシャワーを浴びることにした。どうせまた汗をかくことは分かっているけど。
 タイル貼りのバスルームには、トイレが併設されていた。いわゆるユニットバスではない。便器とシャワーと洗面器が、同じスペースに完全に同居している。シャワーを使えば、水しぶきが便座にまで跳ねそうだ。未知の構造にかなり違和感を感じたけど、それが新鮮で、さっきの十字路の光景と合わさって、わくわくしてきた。便座の蓋を閉じ、少し濁った水で汗を流す。歯磨きをどうしよう? この水を口に入れていいものか……。少し考えて、念のため今はやめておくことにした。しょっぱなからお腹を壊してしまっては旅が台無しだ。部屋用にミネラルウォーターを余分に買う必要があるな。
 アメニティのごわごわしたタオルで身体を拭く。髪は放っておけばすぐ乾くだろう。ビニール袋に昨日の下着と汗の沁み込んだTシャツを入れて、服を着た。八時二十分。
 鍵を閉めて、ショルダーバッグを襷(たすき)がけにしながら廊下を歩くと、日本人とすれ違った。こういう場合はあいさつするものなのか、ちょっと迷って、一応目が合ったので、軽く会釈しておいた。 
 階段に出ると、すぐ外は路地で、一度に押し寄せた熱気が喧騒をよりなまめかしくさせる。昨日チェックインした机には女の子が座っていて、鍵を差し出すと、彼女はそれを無言で、めんどくさそうに受け取った。
 路地に出る最後の階段を下り始めると、下から客引きの声が僕に向かって飛んできた。なるほど、階段の下で獲物を待ち構えているのか。だんだん声が増えていく、遠くから走りよってくる者もある。ここで客が掴めるかどうかで、今日一日の稼ぎが違ってくるのだろう、昨夜の空港とはどこか必死さが違う。真っ直ぐ自分に向かってくる切実な声たちに、思わず身がすくんだ。僕は下を向いて、どきどきしながら男たちを無視して通り過ぎた。中には小声で「ハッパ? オンナ?」と言いながらついてくる者がいて、ネットの書き込み通りだと変に感心した。
 ゲストハウスの一階にはオープンカフェがある。中には客引きは入れないらしい。僕はひとまずここに避難することにした。各テーブルには大小様々なバックパックを傍らに置いた旅人たちが座っている。白人が多い。みな薄着で、小汚く、想像していたバックパッカー像と違ってちょっとムサい。僕はひとつだけ空いているテーブルを見つけ、座った。
 オープンカフェといえば聞こえはいいけど、ここはさっき部屋から見た十字路の一角だ。騒音が酷い。柱の上に申し訳程度に設置された扇風機が、定期的に排気ガス臭い熱風を僕に送って来る。
 カフェの奥にはカウンターがあり、各種ツアーや、長距離バスの手配ができるみたいだ。壁には目的地と値段が書いたボードが貼ってある。明日シェムリアップへと発つから、食事を済ませたらチケットを取っておこう。
 保坂先輩の立てたプランをそのまま実行しなくてもよかったかな? とここへきて思った。プノンペンもごちゃごちゃしていて、これはこれで面白そうな気がする、二日ぐらいは居てもよかったと後で後悔しないだろうか?


 中年のウェイトレスがテーブルにメニューを置いた。薄汚れた英語のメニューを読んでいると、途端にお腹が空いてきた。脇を通った別のウェイターに、フライド・ライスとアイスコーヒーを指さしで注文し、料理を待っているあいだ、旅の日程をぼんやりと思い浮かべた。
 今日一日プノンペンを観光し、明日の朝、長距離バスでアンコール遺跡観光の拠点となる街、シェムリアップに向かう。到着は昼過ぎ。ボートで川を北上することもできるけど、そちらの方が無駄に時間がかかるらしい。それに、バスの方がゆったりと景色を楽しめそうな気がした。
 シェムリアップには、丸二日間滞在して、三日目の夕方の便で帰国する。遺跡観光には二日半あるけど、それでも駆け足になるらしい。ということは、やっぱり明日はシェムリアップに発たないと……。
 フライドライスとアイスコーヒーが来て、汚れがまだ残っていそうなスプーンを紙ナプキンで拭いてから食べはじめた。調味料が効きすぎていて、ちょっと不味い。夕飯には、ガイドブックに載っているレストランにでも行ってみようか……
「ここ、空いてます?」
 声がして、顔を上げると、日本人のおじさんが向かいの椅子を指している。僕はさっと笑顔を作って、「どうぞ」と促した。タンクトップに短パン、サンダル、そこから出ているずんぐりした手足がよく焼けていて……かなり怪しい。
「どこから?」
 ああ、これか、と僕は心中苦笑いした。バックパッカー同士の『どこから?』は、『どのルートでここに来たのか』という意味らしい。『東京から』とでも言おうもんなら、即座にバカにされ、下に見られるのだと。実際に東京から着いたばっかりの場合は、『昨日着いたばっかりです』とでも言っておけと掲示板でアドヴァイスされたのを思い出して、そう返した。そして、バックパッカー独特の〝安さ自慢〟の話も同時に思い出して、ああ、多分くるなと確信した。案の定、
「いいねえ、朝から豪勢で」
 おじさんは勝ち誇った顔でそう言って、クメール文字が書かれてあるミネラルウォーターを一口飲んだ。僕は、〝豪勢〟を、『朝から食べるにしては量が多い』と勘違いした体にして、
「お腹空いちゃって」
「屋台とかさ、いっぱいあるから、あっちのマーケットの方とか行ってごらん。全然安いから」
 彼が指さした方をちらりと見て、
「そうなんですか、じゃあ夕方行ってみますね」
 僕はまた笑顔でそう応え、下を向いてフライド・ライスを数回、勢いよく口に入れた。会話の終了を示唆したつもりだったが、おじさんは動じない。そこから矢継ぎ早に、宿や部屋のサイズ、値段、エアコンは付いているかなどを訊いてきた。僕は短期旅行なのでそれほど切り詰める必要もなかったから、ちょっとグレードの高い――といっても日本円で数百円アップしただけの――部屋にしていた。おじさんは格好のターゲットを見つけたのだろう、眼にありありと喜色を浮かべて、いい部屋に泊まれて羨(うらや)ましいねぇ、俺なんかバストイレ共同のドム(共同部屋)だからさぁと、また水を飲む、注文ぐらいしろよと言いたかったけど、どうせ「金がない」と自慢気に返されるのがオチだ。
「よかったらさあ、今晩一緒にメシ食わない、安いとこ連れてってあげるから」
 いつものように愛想笑いで承諾しようとしたけど、口から出た言葉は、
「いえ、できたら美味しいもの食べたいんで」
 爽やかな拒絶におじさんの表情が固まる。僕はしまった! と後悔した。
「じゃあ、そうしといで」
 そう言っておじさんは、不機嫌そうに席を立った。
 やっぱりああいう人はいるんだ。ネットでは賛否両論、いや、『安さ自慢ウザい論』が少しだけ強かった気がした。でも、『安く済ませるのがバックパッカーの基本』みたいなことを言い続ける人もいた。本格的なバックパッカーなら、数ヶ月は平気で旅したりするらしいから、そういう人たちは切実な理由で経費を切り詰めないといけない。すると、極端に切り詰めてまで旅行の日程を延ばす必要はあるのか、じゃあ三ヶ月旅したことあるのか? 長さじゃない、質だ、質って何だ、証明できるのか?……
 匿名の不毛な議論はさておき、我らが保坂先輩はその辺はアバウトだった。ボられるのは極力避けるとして、無理をしてまで安く済ませる必要はねぇ、と。僕はその言葉に従うことにしていた。


 朝食を終え、シェムリアップまでの長距離バスのチケットを購入した。まだ何もしていないのに、額から汗がしたたり落ちてくる。タオルを取り出して首に巻き、カフェから一歩外に出た途端、またバイタクの運転手たちに囲まれた。ショルダーバッグを前にして、愛想笑いで手を振りながら、〝モニボン通り〟という大通りへと向かった。バイタクの客引きは勢いがすごいけど、しつこくついてくる者はいない。
 太陽の下に出た途端、今まで経験したことのないようなもの凄い熱気に、全身を包まれた。まるで空気に茹(ゆ)でられているみたいだ。歩道に面した店先にミネラルウォーターが売られていたので、一本買った。一ドルを出すと変な柄のお釣りがきて、ああそうか、こちらの通貨〈リエル〉だと思い出した。カンボジアは、米ドルと現地通貨のリエルが流通している。一ドルが四千リエルで、固定相場らしい。千リエルが返ってきたのだけれど、これはボられてるのだろうか? どうなんだろうと考えた瞬間、さっきのおじさんの日焼けした顔が浮かび、すぐに思考を捨てた。
 ――別にボられててもいいや。
 そう思うと、ちょっと自由になれた気がした。ボられたとしても、日本円で何十円の世界だ。それが何なんだろう? 映画館に行けば百五十円のコーラを普通に買うじゃないか。
 モニボン通りを左に折れて真っ直ぐ、まずはセントラルマーケットを目指す。片側三車線の舗装された大通りに、バイクや車、トゥクトゥクがひしめいている。自転車があまり見当たらない。通りの左右には、高級そうなレストランやスーパー、銀行、比較的大きくて綺麗な建物――だいたいは黄色い外壁だ――が並んでいる。空は青が濃くて、まっさらに清潔だ。歩道に点在する南国らしい大きな木が風景に映えて、異国情調をくすぐる。その木陰には、だいたい物売りがいた。民族衣装のような布や、名刺、クーラーボックスに入った飲み物、その他様々なものを扱っている。だいたいがおばちゃんだったけど、皆一様にスタイルがよく、笑顔が南国の木に咲く花みたいにチャーミングで、ついつい足を留めて買いそうになるのをこらえる。ボられてもいいけど、無駄使いはしない!
 物売りやバイタクにひっきりなしに声をかけられながら建物の影を歩き、十字路に出ると右手ずっと先に黄色いドームのようなものが見えた。ガイドブックのマーケットの写真と比較すると、あれだ! 間違いない。そこに向かって歩くと、どんどんと〝カンボジア〟が濃くなっていく感じがした。より雑に、より汚く、より煩く、活気に満ちた感じ。でもどこか懐かしくもあり、不思議な気分だった。
 手前まできて、ドームの外周をたどっていくと小さな入り口があり、そこから中に入った。ほんの少しだけ温度が下がってほっとすると、南国っぽい色鮮やかな果物の群れが目に入った。きょろきょろしながら狭い道を進む。だんだん生臭い匂いがしてきて、今度は魚売り場。小さな台の上におばちゃんが直接座って魚を捌いている。なるほど、この一帯は食品コーナーらしい、エリアごとに売り物が統一されているのか。ハエが飛び交い、床にはいろんなものが飛び散って、恐ろしく不衛生な気がしたけど、日本もちょっと前まではこんなだったのかもしれない。 
 現地人に混じって観光客らしき人もいる。今度は金物屋が並び、それを抜けるとドームの中央に出た。またほんの少しだけ涼しくなった。
 この建物は、元々何らかの宗教施設だったのだろうか? 中央の広場は天井が高く、喧騒が深く反響しあっている。そろってお祈りでもすればぐっとくる雰囲気だ。ここは宝石や時計などの高級品売り場らしく、ショーケースがひしめいている。それなりに小奇麗な格好の店員たちに何度も呼び止められながら中央を突っ切ると、また細い路地に出て、今度は衣料品エリアのようだ。Tシャツはどこかで買うつもりだったので、なんとなく歩を緩めると、途端に売り子につかまってしまった。
「オニイサン、クロマー」
「クロマー?」
 若い女の子が、鮮やかな柄の布を無造作に掴んで僕に差し出す。
「アタマに、ツケル、ソト、アツイです」
 そう言って、通りすがりの女性の頭を指した。黄色の布を巻いている。ああ、と僕はガイドブックの写真付きの記事を思い出した。
《クロマーは、カンボジア版手ぬぐいです。しかし、用途はさまざま。頭や首に巻いたり、体を拭いたり、風呂敷替わりにしたり……。クロマーを帽子替わりに頭に巻いて観光すれば、あなたもクメール人の仲間入り! ただし巻き方には男巻き、女巻きがあるので、現地の人やガイドさんに教えてもらおう》
 さっき通ってきたモニボン通りにも、頭や首に布を巻いている人がやたらといたが、これか、と女の子から手渡されたのを見て納得した。手触りが心地いい。南国だからか、店に並んでいるのは、明るい色のものが多かった。すると、どこからともなく男が現れて、二人がかりで怒涛のように商品を薦めてきた。
(仕方ない、アレを出すか……)
 僕はしぶしぶ、必殺技を出すことにした。ショップなどで売る気満々の店員につかまったときの常套(じようとう)手段だ。一生懸命商品のアピールをする店員に対して、こちらからも積極的に質問すると、だいたい店員はチャンスとみて過剰に説明をしたり、類似商品をあれこれと薦めてくる。それをふんふんと聞きながら、適当なところで、「色々ありすぎて迷うのでいっぺん整理してきます」と、愛想笑いをしながら店を出るのだ。まさかこれをカンボジアで出すとは思わなかった。僕はクロマーの説明を求めるため、同じ色のサイズが違う(ように見える)のを交互に指して、
「セーム?……」
 と言ってから、困ったことに気がついた。英語でうまく質問ができない。すると、女の子が「セームセーム」と言い、すぐに男が「バット・ディッファレン」と続け、二人で笑った。僕は、何のことかよく分からなかった。同じ、同じ、でも違う……どういう意味だろう?
 結局、青と白の格子縞のクロマーを一つ、買わされた。けど後悔よりも、さっきのやりとりが気になって、出口を探しながら何となくそれを口にした。

(試し読み終了)