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真面目に生きてきた自分

僕はよく真面目な人間だと言われます。

自分でもそれを認識していて、自分の性格のひとつだと自覚しています。

真面目な性格というのは日本人を表す特徴でもあり、その性格が勤勉な仕事への態度に表れ、経済発展に大きく寄与してきた事実があります。

しかし、それは良いところばかりではなく、見方を変えれば欠点にもなってしまいます。

今回は、僕が成長するにつれて感じていった真面目ゆえの葛藤について書いてみようと思います。

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子供の頃は真面目であることが絶対的な正義だと思っていました。大人は真面目な子供を褒めるからです。

「えらいねえ」「将来有望だね」

おとなしくしていただけで、周囲の大人たちは僕に対してたくさん褒め言葉をかけてくれました。

褒められるのは嬉しかったし、もっとこの気持ちを持ち続けたいと思っていました。目立ちたかったからもっとみんなに褒めてもらいたかったのです。

だからこの性格は子供の自分にとって都合が良いものでした。

本当は良いことだと思って静かになったわけでなく、ただ単に自分が騒ぐような性格じゃなかったというそれだけのことです。

でも周囲の大人たちに何度も褒めてもらったことで、僕は自分は優秀なんだと勘違いをしてしまいました。

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真面目であるというのは僕の生まれ持った性格です。だから今日も肩肘張らずに真面目に生きています。

子供の頃は真面目であるだけで褒められたけれど、成長するにつれて当然そのような機会は減っていきました。

かつて騒がしかった周囲の子供たちが、徐々に自我を持ち、自分を律し始めたため、表面上はおとなしくなっていきました。それゆえ、みんな見た目だけは真面目になっていったのです。

中高生頃になると頭が良い人や面白い人、とんでもないことをしでかす人が持ち上げられるようになります。

どれでもない僕は表に立つことはなく、存在が周囲の陰に隠れてしまう感覚を持つようになっていました。徐々に自尊心は失われ、調子が狂い息苦しくなっていました。

だからと言って自分が無茶なことができるわけでもなく、今日までこの真面目を性格を持ち続けています。

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ビッグになりたい。

昔からなんとなく持っていた憧れていたイメージは今も健在です。その思いを胸に毎日過ごしています。

大人になっていろんな世界を知るにつれて、成功を収める人のパターンがいろいろとあることを知りました。

もちろん真面目な性格で大企業の社長に成り上がったような人もいるけれど、学校にロクに通わず遊び呆けていた学生時代を送りながら世の中を変革する大きなイノベーションを起こしたような人もいます。

真面目は正義ではない。僕は世の理に気づいてしまったのです。

そしてこの世は、社会にいかに価値を提供したかがその人への評価を決める成果主義だと気づきました。

いくら態度が良くても、全く世に価値を提供していなければ、それは評価に値しません。逆に毎日飲み歩いて、仕事をサボりがちな人でも、ここぞというときにバシッと正解を導き出せば、それは大きな評価となります。

加えて、同じ成果が出ていたら、面白いエピソードを持っている人の方に注目が集まるし、別の角度からの評価も得やすいものです。

社会がそういった側面を持っている以上、真面目は強みにはなりません。

僕はこの性格を持って生まれてきたし、これがひとつのアイデンティティです。だから今後の人生もこの性格を提げて生きていくでしょう。

おそらくこれからも悶えながら自分の人生を過ごしていくことになると思います。目標を達成するまでは。

社会に出てから、この性格ゆえに損をしてきたことも何度もあります。海外に出ると、なおさらそう思うことがあります。でも性格というものは簡単に変えられないし、その中で適応していくしかありません。

もっと柔軟に物事を考え、自分にとって無理のない形で自分らしく生きていきたいなと思います。

そんな優秀じゃないけど、自分は十分面白いことやってるから。


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サムネイルの撮影場所はヴェラ公園展望台(トビリシ)

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