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聖地巡礼記チベットへゆく⑫恋するダライ・ラマ

チベット(西蔵)へ聖地巡礼の旅

仏教は長い歴史において
実は今大きな転換期をむかえている

仏教史において後世語り継がれるであろう
時代を僕らは生きている
そして歴史の目撃者となる

恋するダライ・ラマ六世

歴代ダライの中で評価が高いのは
5世だが
チベット人に最も愛され今でも
大陸の若い人にも人気があるのは
実は六世である

なぜ六世が今でも若い人に人気があるのか?

彼の生き方、人生がドラマチックで
悲しいからかもしれない

僕らはポタラ宮を後にしてガイドと
再びジョカン(大昭寺)へ向かった

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ジョカンの歴史は古く
ネパールの姫が持ちこんだ釈迦牟尼像しゃかむにぞう
祭る為に作られた場所

元々ここは池だった場所に
ソンツェン・ガンポが指輪をなげると池から
白い仏塔が生まれ、木の橋を作り
山羊が土を運び寺院を建てたという伝説がある
拉薩とは山羊ヤギの土地という意味も持つ

ガイドと共にジョカンに入り説明を受ける
ダライ・ラマが試験をした場所や
庭ではチベット仏教でよく行われる
ディぺート大会(お互いに口論し合う)を
したりする場所も今では観光地化してしまった

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文革の時に
2体の釈迦牟尼像しゃかむにぞう
隠し部屋へ移され、破壊を免れた事も聞いた

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今でも重要な寺には変わりないが
観光地化されすぎているせいか
本当の意味での修行僧を見る事はなかった

ポタラと同じく見どころの多いジョカンの仏具
色々説明をしてくれるガイドの知識は豊富

1時間程かけジョカンを観光した後

近くで休憩して夜ごはんを食べて
ホテルに戻るという事でガイドも
僕らを信用し別れる事になった

ジョカンの周りの参道の
バルコル(八角街)の一角に
黄色く 一際目立つ建物がある
瑪吉阿米(MAKYE AME)という
レストランがあり入った

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この建物は
恋詩人 ダライラマ六世とゆかりのある
建物で人気の場所
3階建てで2階ではちょうど
観光客を相手にチベット民族衣装を着た男性が
ダライ・ラマ六世を中心に歴史の説明会を
開いていた

僕らは3階に案内され席に座る
この建物に入り僕も
ダライ・ラマ六世の事を考えていた


ポタラ宮殿を建造し
チベットに貢献した五世は
その死を13年間も隠していた

その為、転生僧トゥルク探しはおおやけには
できなかったが、五世の死後から転生僧トゥルク探しは
摂政のサンギェ・ギャツォにより
秘密裏に進められていた

ブータンに近い南チベットのムン地方で
一人の男の子を見つけた 

後のダライラマ六世となる3歳の子供

発見後 
ダライの転生児としてでなく
別のラマの転生児として

中央チベットへ来ることになるが
拉薩ではなく別の場所に留まった

一時滞在の予定が実に12年間も滞在
それもそのはず
まだ五世の死は隠されていたから
六世を発表できなかった
1697年ようやく五世の死を公表し

「あなたは五世の生まれ変わりです」
告げられた時は
実に15歳になっていた
異例の遅さの宣告が歴史を狂わす

転生僧トゥルクとして修業はしてきたが
もう成人に近い歳

六世への期待は高い
偉大なラマ五世の生まれ変わりである

同じように仏教指導に政治に
強い期待がかかる

十代は勉強や修行に取り組むが
二十代になると勉強に身が入らなくなる

夜になると寺を抜けて
酒を飲み女と遊ぶようになった

その頃多くの詩を六世は残している
そして仏教指導に身が入らなくなっていく

下界で遊ぶダライの噂は広がり
ダライを指導するものや権力者から避難を受ける

五世を尊敬していた
権力を持つモンゴルのラサン・ハーンは
チベットの未来を託すには六世の行いに
耐えれずついに六世を拘束し

偽物の烙印らくいんを押した
彼は偽物のダライだと発表した

清の皇帝は偽の烙印らくいんを押されたダライを
北京へ連行するようにラサンに要求

チベット仏教界が
選定を間違えたとなれば大ごとになる

チベット仏教の権威のある僧院が
再び偽物か本物か神のお告げを確認した

すると
偽者ではなく本物とお告げがおりる

チベット仏教界はお告げ通り
ダライは本物として
モンゴルのラサンに捕まった六世を
取り返しに敵地へ乗り込む

多くの流血を避けるために
六世は自ら北京の皇帝に会いに行く事を
了承し北京へ向かう事になる

しかし
途中の青海湖の南側
クンガ・ノール湖に着いた時に
23歳の若さで急死する


病死とされてるが殺害された可能性も高いが
権威あるダライに対しての罪の意識が芽生え
逃がした可能性があり、その後モンゴルへ行き
寺を築き民衆に仏教を説いて救って
生き延びた説が語り継がれている
その真相は今も闇である

もしそれが本当なら
彼の残りの半生は仏教に捧げた人生
だったかもしれない

その後
ラサン・ハーンは本者の六世発見として
別の人物を六世としてポタラ宮に連れてきた

しかし新たな六世は庶民には
受け入れられなかった

それが六世が生き延びた説が
未だに信じられる要因にもなっている

そんな六世が
二十歳過ぎの頃
よく寺を抜け出し遊んだ建物がここ

今は瑪吉阿米(MAKYE AME)という名前で
レストランになり、当時の事を思いながら
お茶をする若者が多い
僕もその一人だった

瑪吉阿米MAKYE AMEとは
未婚の女性を意味し
ダライラマ六世が未婚の女性をテーマに
多くの恋を描いた詩を残している事から

店に、この名がついた

ダライ・ラマ六世は廃位された為
唯一ポタラ宮に仏塔、霊塔を持たない
ダライとなった

チベット仏教界から消されてしまった

しかし庶民の心には強く残り
もっとも愛されるダライになった

彼はお酒も飲み女性とも遊び
ダライ・ラマらしからぬ行動
ではあるが
彼が残した詩が評価されていて
彼の死を悲しむ人が多くいた

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六世が残した詩の一つで
僕が一番好きな詩を一つ紹介

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

あの一日
目を閉じてお香の香る寺の中にいた
ふと、何かが聞こえた
あなたがお経を唱える声だった

あの一月
わたしは、あらゆる転経筒をまわした
苦界から救うことにはならず
ただ、あなたの指先に触れたかった

あの一年
必死に山道を進んでいた
皇帝に会うなんて どうでもいい
ただ、あなたの温もりを感じ あなたに逢いたかった

あの一生
わたしは山をまわり湖をまわり仏塔をまわった
来世なんてどうでもいい
ただこの一生 あなたの姿をみたかった

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ダライであり
悩みを持つ青年であり
恋する男であり
細かな心情を描いた詩

彼は果たして五世の転生僧トゥルクだったのか
そして彼は生き延びていたのだろうか

新たに即位した六世は受け入れられなかった
六世が存在している状況の
その裏でゲルク派の寺では密かに
七世探しが始まっていた

その時に
六世が残した一つの詩が
七世へと繋がる事になる

恋するダライ・ラマ六世

繊細な詩は
今でも若い女性に人気があり
六世関係の本は今でも紹介されている

時を越え
廃位され消された六世が
皮肉にも
もっとも人気のあるダライとなっている

それはダライも人間である事を
僕らに教えてくれたからだと思う

⑬へ続く 奇跡的に秘密の寺に迷い込む へ続く

チベットへ行くはシリーズでつづっています
是非過去記事からどうぞ!

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