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湧き上がる【承認欲求】を“自分を表現すること”に使えば、僕たちはもっと輝くはず
“承認欲求”って別にダメなものじゃなくて、本当は自分を突き動かすエネルギーの塊なんじゃないのかな?
という考察です。
承認を得られなかった過去
もしも子どもの頃にありのままの自分を十分に愛してもらえていれば…
と、ときどき思うことがある。
たとえば周りと比べて良いところだけを褒められるのでなく、間違ったことをしたときに非難されるのでもなく。
あるいは成果や成績でなく自分の態度や行動を承認してもらえていればと。
そうすれば大人になった今でもこんなふうに他人に承認ばかり求めるような生き方ではなかったのかもしれない。
そんなことをときどき思う。
学校や職場で、友人や上司や恋人から、あらゆる環境であらゆる人から承認を求めてきた。
それも無意識のうちに。
そのことにはじめて気づいたとき、自分で自分をとても恥ずかしく思った。
承認欲求があること自体も恥ずかしいものだと思ったし、人から認められないと胸を張って生きていけない自分が恥ずかしかった。
承認欲求が持つ可能性
でも承認欲求は、思えばいつも僕を突き動かしてくれていた。
成績を上げるために勉強を頑張ったり、
活躍して褒められたくてバスケ部の練習に励んだり、
みんなから注目を浴びたくてギターの練習をいっぱいして文化発表会の舞台に立ったり、
良い人に思われたくて初めて会った人に自分から声をかけたり、
「ありがとう」と言ってもらえるのが嬉しくて仕事を頑張ったり。
もしもその原動力が“承認欲求”だったとしたら、どうだろう。
全部人に認めてもらおうと思ってやってたってことなのかな
そう思うとちょっと哀しくはなるけど。
でも、
自分を変えるきっかけ。
新しいことに挑戦する勇気。
僕と大切な人たちを結びつける力。
きっと承認欲求は、ダメなだけのものじゃない。
承認を求めて自分を見失う危うさの裏には、何か大きな可能性を秘めている気がしてきた。
承認欲求は “表現欲求”
もしも子どもの頃にありのままの自分を十分に愛してもらえていれば…
はじめにそう言った。
ただ僕たちは生まれ変わることも、生まれ直すこともできない。
どれだけ悔やんでも願っても呪っても祈っても、過去には戻れないし変えられない。
そう、過去と他人は変えられない。
だったらこのどうしようもない承認欲求を、自分のエネルギーにして生きてやることはできないだろうか。
承認欲求は、きっと湧き上がる燃料のようなもの。
他人に承認を求めてばかりいると、期待が叶わなかった途端にまた心は満たされなくて空っぽになる。
だから、承認欲求は自分の内に燃やす。
何かしらの形にして「これが自分だよ」って表現できるまで、自分の内で燃やし続ける。
言葉、文章、小説、声、喋り、音楽、動画、イラスト、写真、書籍、料理、ダンス、スポーツ、表現の仕方はなんでもいい。
僕は今noteで言葉にして表現しているし、僕たちはここで繋がっているけど、別にどこでどんな方法でもいい。
自分を偽って他人に承認を求めているときよりも、自分の内で燃やした命は、きっと自分が一番承認できる。
納得できて、自己肯定感も持てる。
成果や評価ではなく、
その自分らしい生き方に誇りが持てる。
「これが自分」と言える日まで
満たされなかった過去はすぐに受け入れられなくてもいいんじゃないかと思う。だってそんなに簡単なことじゃないから。
それよりも、今ある承認欲求というエネルギーを使って、自分なりの形として表現することに集中するのがいい。
「これが自分だ」
っていつか恥ずかしげもなく表現できる日が来る。
きっと来る。
どんな方法で、誰に向けて表現しようか。
“自分らしい表現”を追求して生きていこう。
僕たちだからこそ届けられるものが、きっとある。
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