木村敬一

パラリンピック競泳S11(全盲)クラス、ロンドン,・リオデジャネイロ大会で銀メダル獲得…

木村敬一

パラリンピック競泳S11(全盲)クラス、ロンドン,・リオデジャネイロ大会で銀メダル獲得。東京パラリンピックでの金メダル獲得に向けて、現在米国ボルチモアを拠点に練習中。アメリカでの生活のことを、少しずつ書いていこうと思います。

最近の記事

50m自由形で日本記録を更新した時の話

 世界選手権初日の50m自由形。大きな試合というものは、何回出場しても緊張する。特に初日は緊張する。  俺の自己ベストは26.56。リオパラリンピックの記録だ。日本記録あ、大先輩、河合純一さんの記録、26.37。2000年にマークされたこの記録は、23年間破られていない。いつかは破らねばと思っていたこの記録。0.2秒という差は、長きにわたる地球の歴史からするとあっという間だが、50mの中では大差と言える。  50m自由形。競泳の種目では最もスピードが速く、一つのミスも許されな

    • 英会話スクールに通い始めた話

       コロナ禍でアメリカから日本に戻ってきて3年が立った。当時からものすごく英語が話せるわけではなかったが、それにしても最近、だいぶ英語を忘れてきてしまっているように感じる。一応、World Para Swimmingという組織の中で、アスリート同氏の会議なんかに出るようにもなったので、これはもう一度勉強をしなおした方がよさそうだ。というわけで、英会話スクールに通うことにした。  ちなみにアメリカに住んでいたころの語学力を自分で評価すると、 ・水泳のトレーニングに関する会話は問題

      • 鼻の手術第3回 「術後ってめっちゃくるしかった話」

         手術が終わった。麻酔が切れてくるにつれて、だんだん痛くなってきた。  鼻が痛いのはあたりまえだけど、頭も半端なく痛い。  痛み止めの薬はもらえるのだが、これがもう、全然効かない。点滴から痛み止めを入れてもらったらだいぶ楽になった。ともかく、寝たい。寝たいんだけど、点滴が常につながっていて落ち着かない。  ところで、俺はそうとう寝相が悪い。寝相が悪いというか、寝ぴくが激しい。電車で転寝しているだけでもそうとう震えるらしく、隣に座っていた知らない人を肘でぼこぼこにしてしまう。ト

        • 鼻の手術第2回 「入院の話」

           2022年、新しい年が始まった。東京2020退会は、もう昔のこと、俺は鼻を直すのだ。  入院。記憶にある限りでは、入院したことはない。幼いころに目の手術で入院していたのが最後、全身麻酔の手術もその時が最後、だと思う。どきどきするけど、入院したら翌日には手術、1日様子をみて、四日目には隊員という、入院にしては短いもの。  入院当日、病室にチェックイン(であってるのか?)すると、次から次へと来客がくる。事務手続きのおばさん、薬剤師のお兄さん、担当の看護師のお姉さん、執刀医の先生

        50m自由形で日本記録を更新した時の話

          鼻の手術第1回 「副鼻腔炎と診断された時の話」

           2019年夏、まだアメリカに住んでいたころに盛大に風邪を引いた。完全に冷房にやられた。それ以来、鼻声が治らない。別にずっと詰まってるとか、そんなんじゃないけど、ずっと鼻声。最近知り合った人には分かってもらえないけれど、俺はこんな声じゃないんだ。  でもまあ、風邪が治ってしまえば、生活に支障をきたす訳でもないし、ほおっておいた。ところが、それ以来、しょっちゅう風邪を引くようになった。東京パラの内定のかかった世界選手権も、マックス風邪を引いている状態で泳いでた。結果たまたま優

          鼻の手術第1回 「副鼻腔炎と診断された時の話」

          東京パラリンピックの選手村が楽しすぎた話

           8月21日、入村。自国開催であり、かつ俺のレースは試合の後半なので、無理に選手村に入らなくても、ナショナルトレーニングセンターなどの隔離施設で調整することもできたが、せっかく東京パラリンピックだから、村に滞在することにした。ご飯もおいしいって噂だったし。  ご飯は、確かにおいしかった。おいしいというか、普通だった。  国際大会に行った時って、「これはなんなんだろう」とか、「どんな味がするんだろう」とかって、思いながら食べて、「うわなるほど、そういう感じね」ってなりながら食事

          東京パラリンピックの選手村が楽しすぎた話

          東京パラリンピックで金メダルを取ったときの話

          初めに、沢山の応援、本当にありがとうございました。初めてパラリンピックに出場してから13年、メダリストになってから9年、これ以上ないほど悲しい思いをしてから5年。長年の目標を達成することができて、幸せいっぱいです。  さて、この金メダルまでのこと、忘れないうちに文章にしておきたい。  9月2日、レース前日。前日に平泳ぎで銀メダルを取ってはいたが、あくまで目標は金メダル。この日も、アメリカからかけつけてくれたコーチと、最後の調整と作戦会議。 パラリンピックの競泳は、午前中に

          東京パラリンピックで金メダルを取ったときの話

          世の中で1番尊敬している男、室伏広治の話

           今朝のニュースはびっくりした。室伏長官が難病と戦ってたなんて。かってに病気しない人かと思ってた。 https://news.yahoo.co.jp/articles/67f04f1c4f518f26f45fbbab4dad098a3d677df4 そんな室伏さんとは、何度かお会いさせていただいたことがある。で、これまたかってに、俺は室伏さんのことを、世の中の男の中で一番尊敬している。今回、病魔と闘いながらも、オリパラ開催に向けて走ってくれていたというニュースをみて思い出し

          世の中で1番尊敬している男、室伏広治の話

          アメリカでのトレーニング第29回(最終回) 「コロナに振り切られてトレーニングが終わってしまったときの話」

           2020年3月。いよいよアメリカでも感染者が出てきた。もはや、世界で安全な場所はなさそうだ。  3月11日、多くの大学が休校を決めた。俺が住んでいる大学も、練習している大学も。コーチが緊急ミーティングに呼ばれて、どうにかプールだけは利用を継続できることとなった。しかし、俺の住んでいる寮の食堂はあと3日で終了、そこから3週間は営業を停止することとなった。  もちろん語学学校も休校。翌週からオンラインで授業を行うこととなった。  アメリカは多くの学校が休校になった瞬間、大至急

          アメリカでのトレーニング第29回(最終回) 「コロナに振り切られてトレーニングが終わってしまったときの話」

          アメリカでのトレーニング第28回 「コロナに振り回されてたときの話 その2」

           2020年3月。コロナウイルスの感染が拡大し、日本で開催される予定だった試合がなくなった。なので、日本に帰らないことにはなっていたのだが、その一方で、俺がアメリカに滞在できる資格が、後1ヶ月で切れてしまう。  という状況に陥ったことで、所属企業から帰国せよとの指令が出た。しかし、その時点では(強調するがその時点では)、ウイルスが蔓延しつつあるのは日本、危ないのは日本。  語学学校のスタッフは、日本に帰ることに猛反対だった。当然だ。今後アメリカ政府は、日本からアメリカへの入国

          アメリカでのトレーニング第28回 「コロナに振り回されてたときの話 その2」

          アメリカでのトレーニング第27回 「コロナに振り回されてたときの話 その1」

           2020年2月、徐々にコロナウイルスの感染が広がり始めた。中国に始まり、日本もクルーズ船から感染が広がっていった。それを眺めていたアメリカは、完全に人事のように捕らえていた。 「3月に日本で試合があるから帰るんだ」とかって話していると、「ウイルスもって帰ってくるんじゃないぞ」といじられていた。  そんな3月の試合の中止が2月26日に出された。つまり、日本に帰らなくなった。今回の帰国はすごく楽しみだった。1月のホームシックはなくなっていたが再発しそう。しかも、次はいつ帰れるの

          アメリカでのトレーニング第27回 「コロナに振り回されてたときの話 その1」

          アメリカでのトレーニング第25回 「少しずつ元気を取り戻しつつあったときの話」

           2020念1月はどん底だった。お世話になっていた人が次々といなくなり、寂しくてホームシックになっていた。  その要因の一つであったのが、トレーナーのTonyがいなくなってしまったこと。後任として彼の後輩、Jakeが引き継いでくれることになった。Tonyとの最後のトレーニングの日に対面して、引継ぎをしてくれるとのことだったが、Jakeは現れなかった。 もちろん、こっちも期待はしていない。  とりあえず連絡先を教えてもらい、メッセージを送って、どうにか初回のアポをとった。新し

          アメリカでのトレーニング第25回 「少しずつ元気を取り戻しつつあったときの話」

          アメリカでのトレーニング第24回 「1年半も経って、今更ホームシックになったときの話」

           2020年1月。合宿を終えてボルチモアに戻ってきた。もう、語学学校にMBはいない。常に気にかけてくれていて、オフィスに行けばいつでも話し相手になってくれたMB。彼女のいない学校で、果たしてやっていけるのか、いまだに不安でいっぱいだ。  ところが、この不安は始まりに過ぎなかった。  日曜日の午後に、トレーナーのトニーから連絡があった。ここでも何度も登場した、ドタキャンだらけで豪快な性格のトニー。またしてもトレーニングをリスケしてほしいという連絡かと思ったら、今回はスナイダー

          アメリカでのトレーニング第24回 「1年半も経って、今更ホームシックになったときの話」

          アメリカでのトレーニング第23回 「お世話になっていた人が突然いなくなってしまったときの話」

           2019年12月。語学学校のディレクターMBが、突然退職することになった。 視覚障害のある俺を受け入れてくれた張本人であり、コーチと並んで俺のアメリカ留学を実現させてくれた最重要人物。彼女が退職するとは、とんでもないことになってしまった。  俺が通っていた、かつ住んでいた寮は、ノートルダム大学メリーランド校。この大学の付属機関としてあるのが語学学校。かつて視覚障害者を受け入れたことはないのだが、初めて見学に行って相談したとき、責任者であったMBの「とにかくやってみましょう

          アメリカでのトレーニング第23回 「お世話になっていた人が突然いなくなってしまったときの話」

          アメリカでのトレーニング第22回 「再びプエルトリコへ行ったときの話」

           2020年1月。今年も合宿の季節がやってきた。場所は去年と同じプエルトリコ。去年はすべてが新鮮であった一方、全体のペースについていくのに必死だったが、今年はなんとなく流れが分かっている。  去年は1月3日スタートだったので、ボルチモアからみんなと一緒に向かったが、今年は1月2日スタート。年越しはなんとしても実家で過ごしたかったので、日本から直接現地プエルトリコに向かった。  直行便はないのでヒューストン経由。乗り換え時間が少なかったので昼食を食べそびれた。 ヒューストンから

          アメリカでのトレーニング第22回 「再びプエルトリコへ行ったときの話」

          アメリカでのトレーニング第21回 「日本から寺西先生が試合に来てくれたときの話」

           2019年12月、アメリカの国内大会に出場した。今回は、日本から寺西先生にもきてもらい、試合でのタッピングをお願いすることになった。寺西先生とは、俺が中学生の時からタッピングをしてもらっている。  場所はテキサスのダラス。寺西先生は日本から、俺はボルチモアからなので、現地の空港で集合することになっていた。はじめから、うまくいく気がまったくしない。  俺が練習をしていたLoyola大学関係には、障害をもった選手がほかにも何人かいる。よく登場するのがMcKenzie。身長が

          アメリカでのトレーニング第21回 「日本から寺西先生が試合に来てくれたときの話」