東京パラリンピックで金メダルを取ったときの話

初めに、沢山の応援、本当にありがとうございました。初めてパラリンピックに出場してから13年、メダリストになってから9年、これ以上ないほど悲しい思いをしてから5年。長年の目標を達成することができて、幸せいっぱいです。

 さて、この金メダルまでのこと、忘れないうちに文章にしておきたい。


 9月2日、レース前日。前日に平泳ぎで銀メダルを取ってはいたが、あくまで目標は金メダル。この日も、アメリカからかけつけてくれたコーチと、最後の調整と作戦会議。
パラリンピックの競泳は、午前中に予選、夜に決勝が行われる。俺の実力的には、正直予選を通過することは難しくない。体力を温存することもできた。しかし、コーチの支持は違った。
「現実的な話、1分2秒の前半が出せれば負けることはない。予選で確実に2秒台を出そう。お前はぜったい、夜になればかってにタイムが上がる。どんな時でも2秒は出せる、そうやって自分に自信をつけて、ライバルの心を午前中に折ってしまえ」
なるほど、承知した。

 練習を終えて部屋に戻る。翌日は6時半に起きて朝食の予定、10時半には就寝した。
2時間後。完全に、目が覚めた。これは、あかんやつ。緊張すると眠れなくなるという症状に長いこと苦しめられてきた俺は、今年の4月からは、毎日睡眠薬を飲んできた。けど、その薬をもってしても、この1か月は眠れなかった。そして、今日も目が覚めてしまった。そして、俺は知っている、この感じは、もう2度と眠りに落ちることはできないやつであることを。

 この件については、スポーツ心理の先生にも相談していた。初めのうちは呼吸法とか、いろいろと対策を提案してくれていた先生だが、大会が始まってからは、
「こんなものは、最後は覚悟だから。大丈夫。2時間も眠れれば、大会期間ぐらい持つから。人間、そんな弱くない。腹をくくれ」と言っていた。
 そう、人間、覚悟が決まれば大丈夫なのだ、学術的に。あるいは、心理学の専門家というより、日本大学の先輩として言ってくれたのかもしれないが。

 何はともあれ、俺は行くしかない。朝食は納豆とご飯と味噌汁。納豆は嫌いだ。でも、毎日朝食に納豆を食べ続けてきた。体にいいらしいから。あと、いやなことを積極的に我慢することで、頑張っていることを必死に神にアピールしたつもりだ。
 別に宗教の話ではない。神様がいるのかは知らない。でも、俺はなんでもいいから勝ちたい。ただそのために、徳を積むのだ。
 この「徳を積む」という言葉は、今回のパラ水泳チームの合言葉みたいになっていた。みんな必死にごみを拾い、トイレのサンダルをそろえた。けして綺麗な心からではない、神へのアピールだ。そう、俺たちはあざとい集団だった。

 予選がスタート。飛び込んでいきなりコースロープにぶつかった。スタート直後の激突は大きなロスになる。が、こっちはそんなものには慣れている。冷静に泳ぎの姿勢を作り直して50mをターン。後半はいけるところまで行って、泳ぎのテンポだけ落とさないことを意識して泳ぎ終えた。
タイムは1分2秒25。予定通りの2秒台。なんならこの記録でもう一度決勝を泳げば勝てる。呼吸はほとんど乱れていない、まだまだ余裕がある。それぐらい、完璧な予選だった。

 決勝でタイムを上げる自信はあった。だから、優勝する自信もあった。でも、緊張感もいまだかつてないほどあった。
 全身に電流が流れ、靴をはいているのに床が熱い。口の中はからからに乾いていて、内臓が宙に浮いている。頼む、早く終わりにしてくれ。

 決勝スタート。飛び込みから浮き上がりは完璧だった。25mを過ぎて、左右を泳ぐ選手の水しぶきは感じない。きっと、俺が先頭を泳いでいる。みんな、黙って俺についてこい。
 周りの選手が見えないから、レース中は完全に妄想の世界。実際どういうレースかは知らんけど、どう思おうが俺の自由なのだ。

 50mをターン。予選より1かき多い。オーバーペースか?でも、もう後には引けない。
 右に曲がってコースロープに激突。一気に減速した。一度減速したものを、再び加速させるためには、半端ないパワーが必要だ。そのせいで、疲労感が全身に押し寄せてきた。
 まずい。これは、最後まで持たないやつや。腕が上がらない。さあ、どうする。
壁にタッチしたというよりは、流れ着いたという方が正しいと思う。それぐらい、ばてばてだった。
負けた。きっと負けたなこれは。ゴール直後に、俺たちは結果を知ることができない
。全員がゴールし終えて、審判の笛がなった時点で、結果を教えてもらうことができる。それまで、絶望的な数秒を過ごした。
「1分2秒57、金メダル、おめでとう」
寺西先生の声が上からした。勝った。俺、勝ったんだ。その瞬間、全部がどうでもよくなった。

 1分2秒57。控えめに言って、めっちゃ遅かった。国際大会で予選よりもタイムを落としたのはたぶん初めてだ。ちなみに、5年前のリオのときよりも遅い。つまり、今の俺がリオで泳いだら、金メダルを逃すどころか3着だ。こんな記録で勝てたのだから、運がよかったとしかいえない。神は、納豆をみてくれていたのだろうか。

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