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知識だけあるバカになるな!

昨日で「平成」という時代に終止符が打たれ、今日2019年5月1日から「令和」の時代が始まる。令和元年5月1日はなんだか落ち着かない。

何かを継続するという感覚がすこぶる苦手なわたしも、せっかく元号が変わるという滅多にない機会にいるのだから「何かを始めよう」とこれに乗っかることにした。

趣味の読書で得られた情報の発信ならできると思い、始めることに。


このコーナーは書評というか読書感想文というか、総合的に「本の案内」ができればいいなくらいの気持ちで連載をスタートしたい。

本屋に行ってみたものの、「いっぱいありすぎて何を読んだらいいかわからない!」と思っている人に向けて、少しでも役に立てば嬉しい。



今回の書籍

『知識だけあるバカになるな!』(仲正昌樹)という本を読んだ。

なぜこの本を読もうと思ったのか?

それはタイトルが強烈だったからだ。わたし自身がまさにタイトルにある「知識だけあるバカ」の可能性が高い!と思っていたのだ。要するに、わたしはこの本に「喧嘩を売られた」のだ。(※わたしの勝手な解釈です。)

まんまと引っかかったわたしは、売られた喧嘩を買ってしまったのである。


本の案内

ーどんな本?ー

この本のサブタイトルに「何も信じられない世界で生き抜く方法」とある。

その手引きとなる重要なマインドセットを教えてくれる書籍だ。

たとえば、「学問とは何か」という問いに、爽快な答えを出せるのなら読まなくていいだろう。


ーだれに読んでほしい?ー

大学生。特に「自分以外の生物がみんなバカに見えはじめている」鼻が高くなってしまっている学生に見て欲しい。(どんな人や。過去の俺ちゃ。)


ーどのように生かす?ー

この本は「学びに対する姿勢」を教えてくれる。

例えば、「知っている」と「理解している」の違いとは何か?といったことを考えるきっかけを与えてくれる。自分の日々の「学びに対する姿勢」を客観的に見つめる重要性をこの本のおかげで整理できた。

「学びの姿勢」はビジネスに限らず、あらゆる生活のシーンで大事になるとわたしは思っている。この本のポイントを押さえるだけでも知識の吸収率や思考力に変化がでるのは間違いない。

「大学生」には特にオススメしたい。


ーこの本を一言でまとめると?ー

常に自分は「バカ」かもしれないと自覚しておけ。



読書感想文

ー読む準備ー

「知識だけあるバカ」とは一体どんな人なのだろう?

この本を読む前にそんなことを考えていた。そして次のように考えた。

「その問いに対する答えをすぐに求めて(答え集めに走って)、その答えを導くためのプロセスや遠回りといったものを軽視する人」

こう、定義してみた。

「つまり、これって広く言われている『思考停止』ってことじゃね?」とも思ったり。

偏見とはわかりつつ、こういうタイプの人って「偏差値が高い層」に多いのではないか?なんて仮説もよぎる。

過去を振り返れば、わたしも特に苦労することなくそこそこ偏差値の高い進学校に進学したのだが、今考えれば当時は自分のキャリアについて深く考えることなく世の中のレールに乗っかっていただけで、行き着いた先がそこだったというだけだ。

でも、周りを見渡したら見渡したで当時のわたしのような人は一定数いたように思う。将来について深く考えたり、自分の生き方について悩んでいても、今考えればまぁ浅いなと思うような程度のものでしか悩んでいない。基本、勉強しかしていないのだ。その勉強も、正解を当てるゲームしかやってないわけだ。だから、先述した仮説がよぎったのだろう。

だって、世の中のことなんてほっとんど知らなかったし。

高校に入って落ちこぼれて、やっと社会に対する違和感みたいなものを感じるきっかけに出会えた。もし、その違和感に気づかずに、そのまま大人しく勉強することになっていた道を進んでいたら...と思うとゾッとする。


話が脱線したので元に戻そう。


つい最近だとわたしは本を読みすぎてインプットメタボになっていたのもこの本を手にするきっかけとなっている。

本ばかり読んでいると、変に知識がついてしまうので「思考」をおこたる場面が増えていたからだ。

その末路こそ、俗にいう「あたまでっかち」に他ならない。

本を読むことは決して悪くないのだが、「本の読み方」を間違えるとその道をたどることになるとわたしは考えている。

その原因は「アウトプット不足」だ。


<図1>


わたしは「学習」とは上の図のようなサイクルを回すことだと考えている。

これを「学びの循環」と呼ぶことにする。

このサイクルがうまく回っているとき、効果的な学習ができていると判断する。

前提として、インプットとアウトプットはトレードオフ関係にあるとわたしは思っている。つまり、両者は天秤にかけられた存在なのだ。どちらかの重りに偏りがあるとと平行を保てない。

この概念を扱うには、インプットとアウトプットは同じパイに属している関係であると踏まえる必要がある。だから、パイの面積を奪い合うのではなく、パイそのものを大きくすることが効果的な学習をする上では大事な考え方なのだ。パイを大きくするためには、このサイクルをうまく回すしかない。

だから、例えばインプット過多になると、それに伴ってアウトプットが不足する。両者のバランスが崩れるのだ。(片方の重りだけ重すぎると天秤は重い方にかたむくはず。)


<図2>


<図2>の状態が「インプットメタボ」である。

私たちの身体のシステムをイメージして理解を進めたい。

わたしたちの身体の血液や細胞は古いものを外に出し、新しいものを生産することで日々の健康を維持している。しかし、新しい細胞や血液を作るためには食事や水分補給に気をつけないといけない。摂取すべきものが不十分になると、身体の中では使い古したものを使わざるを得ない。このままだと、カラダの腐敗をはやめてしまうことになる。

同じことがこの「学びの循環」でも言える。

なぜインプットばかりに注力したら行けないかというと、学びが「アップデート(更新)」されないからだ。

まずやるべきことはアウトプットの機会を増やすことで両者のバランスを整えないといけない。インプットとアウトプットのバランスが整ったときに初めて、「学びの循環」が機能する。

読書で取り入れた知識は無駄ではないが、一方でその知識はすでに減価償却が始まっている中古品の側面があることを忘れてはならない。

つまり、ただ持っているだけでは腐ってしまう可能性が高いということ。余談だが、そういったプレッシャーを与えてくれるのが、この「学びの循環」の概念のいいところであるとも思っている。

だから、実際に持っている知識を試す機会をつくることが大事になってくる。これを<図1>では「実践」と表記している。

これは理科の実験とイメージが似ている。「試す」とあえて表現しているのはアウトプットはあくまでも「実験の場」と捉えているから。実験してどうなるのかを体験することに価値がある。

そして、体験を終えたら、それによって得た結果を実験後のレポートにまとめるだろう。

この実験後のレポートを書く作業が、<図1>の「ふりかえり」だ。

「ふりかえり」こそ「学びの循環」においていちばん大事なポイント

「ふりかえり」によってその知識に対する見方がより複合的になる。自分の理解と実際の結果のギャップを認識したり、その知識の関連情報を調査したりと前向きなフィードバックが得られるからだ。

そしてこのプロセスこそまさに、知識の「アップデート」であり、「次のインプットへとつながる矢印」になると思っている。

ここまでが、わたしの「学びの循環」の認識だ。


さて、本題に戻そう。


「知識だけあるバカ」を最初に定義したが、簡単に総括すれば「あたまでっかちになるな!」というメッセージで、そうなるのを防ぐ知見が詰まっているのが本書なのだろう、と予想したわけだ。

ここまで準備した上で、本の表紙から順にめくることにした。



ー読書中ー

ここからはテーマに分けてわたしなりの理解を整理していく。


▷大学でやる「学問」において大事なのはー。

ある問いに対する「答え」というのは、”絶対に正しいもの”と、”複数の答えとなる場合”と、”時代の変遷によって変化する動点のようなもの”がある。

そもそも「答えの出しようがない問い」もある。

まずはこの前提を理解しておく必要がある。

大学で学ぶ「学問」は、(答えが出る、出ないで判断せずに)結果がどうなるかわからない問題であっても考え続けることが重要であることを心得ておくことが大事。

結論は本書を引用する。

大学で学生としてやる「学問」というのは、そうした、そもそも”本当の正しい答え”があるのかないのかさえわからない底なし沼のような状態で、一つひとつ手探りするようにして自分で「答え」を見つけようと継続的に頑張るということです。(本書P19より引用)



▷学問的な探求

今日の社会では、情報が溢れかえっているため、どうしても多くの情報と触れる機会ができてしまう。

ここで懸念されるのは、多くの情報に触れているがゆえに「なんとなく”知っている”」状態にわたしたちはなりやすいということ。

ここで注意したいのは、「知っている」と「わかっている」は別物だという認識を持っておかなくてはならないこと。自分がその情報に対してどちらの状態であるのかを調べる方法は「説明できるかどうか」で判断がつく。

自分がその情報についてきちんと「理解」していなければ、誰かに何かを説明することはできない。実際に理解していない情報を説明しようとするとうまく言葉にできないはずだ。

※理解せずとも喋ることはできるだろうと反論がありそうだが、そうなったときに説明されている内容は単なる話し手の「解釈」、つまり「感想」をだらだらと話されているにすぎない。

そんな状況に生きていることを自覚しつつ、大事なポイントとして「学問的な意味で『知る』」ことを学んでおく必要があるのだ。


各学問領域において、「疑う」ことと「知る」ことは表裏一体の関係にあります。自分が常識とか社会通念としてなんとなく”知っていること”について、「本当にそうなっているのか?」という疑問を持って検討するところから、学問的な探求が始まります。「疑う」を進めた結果、それまでの自分が”知っている(つもりだった)こと”を再確認することになるかもしれませんし、全面的にひっくり返すことになるかもしれません。それが学問的な意味で「知る」ということです。(本書P27より引用)


つまり、学問とは「疑う→理解→知識(となる)→疑う→理解→知識→疑う→理解→知識→…」という疑いながら考え続けるプロセスを繰り返すこと。

また、学問は0からひとりで始めるものではなく、先人が明らかにしてくれた道をたどることからスタートし、後世の人に示せる道をつくるもの。

だから、常に自分は「とりあえず先人の考えにのっかっている」ことを自覚しながら「知識」の真理を探求する必要がある。

なぜなら、先人が明らかにしてくれた道が必ず正しいとは言えないから。



▷ノートの取り方

学問を始めた初心者において、そもそもいくつかある先人が示してくれた道のうち、どの道を歩いていけばいいか決断できない段階にあるとき、まずは各分野の「情報収集」のテクニックを知る必要がある。

大学においては「ノートの取り方」が1つポイントとなる。

Q:なぜ「ノートをとる」のか

小中高校の場合:ノートをとる目的は主に「復習して覚えておくべきことを明記するため」。生徒が勉強する際に、どこを重要視すればいいのかサポートするためにノートの取り方は「板書」が中心。また、身体を使うことも重要だから。目の運動と手の運動をさせることで記憶の定着率をあげている。声に出すことも記憶の定着を助けるので大事。

大学の場合:学生自身の主体的な判断による情報の選別を要求する。つまり、自分で情報を獲得・整理・編集する力をつけるためにノートをとる。「板書」だと学生の予備知識がピンキリなのでどのように板書をするか、最適な内容の編集が難しいという理由がある。※だから大学の講義は基本的に「板書」が少ない。

「授業から何を学びたいのか、学ぶべき内容が学生によって異なっていることも理由としてある。つまり、先生が「1」と言ったことに対して、「1」を学べたら十分と思う人から、「10」を学びたい!と思っている人もいるということ。だから、学生の主体性が大きなポイントとなる。

「学生の主体性」について、もっと追求。

そうすると、浮かびあがってくる大事な要素として「知的好奇心」が鍵となる。なぜなら、知的好奇心は知識の吸収率を左右するから。それは「学びの姿勢」からその人の人生形成にまで大きく影響する。

つまり、学びに貪欲な学生と、居眠りする学生の大きな違いは「知的好奇心」の有無で決着がつくのである。そして、それは努力によって変えられる要素だから、人との差を1にも100にもできる話なのだ。(実際はそんな簡単に知的好奇心を手にできないとは思うが。)


▷学問の第一歩

学生は「わかっているつもり」になりやすい。

「わかっているつもり」になる原因は、自分にとってわからないことがある状態が「不安」に結びつくから。逆に、「分かろう」と努力をし始めると今度はうまく説明できない自分がいることに気づいてしまうのを恐れているのもある。

学問の第一歩=「わかったつもり」がいかに頼りない状態かを知る

あらゆる学問は、「私は知っている」あるいは「私は分かっている」と思っていることの確かさをもう一度問い直すことから始まります。(本書P55より引用)



▷自分の意見を持つ

まず、きちんと「理解した情報」のストックがないと、自分の意見を持つことはできない。専門用語、概念、歴史的背景といったものを総合的に理解していないとそもそも議論をすることができない。

「分かったつもり」の無力な面は特に議論の参加券を与えられない点にも見られる。

また、客観的な理由を述べるためにも「理解」することの重要度を指摘できる。

例えば、「大学に進学することに意味はあるか」という議題が与えられたとして、YES/NOを述べた後に、なぜそう思うのか「理由」を述べるだろう。

ただし、自分の意見として有効なのは極めて理性的な意見である。「私がYESと思ったからYESなんだ!」というようなDQNな理由を述べられても、聞いている側が評価できる要点がないから即却下となるだろう。このような意見を情緒的な意見という。

理性的な意見というのは客観的な意見に他ならない。例えば「YESです。大学にいる〇〇先生にお会いして、その人のもとで学びたいと強く思っているから。」というようなケースであれば、聞き手がなぜYESと思うのか、その裏付けを評価できる。客観的な意見とは他者と共有できるポイントが含まれている意見。

客観的な理由を述べるためにも、例のようなケースであれば、そもそも大学に関する基本的な情報の理解がなければ議論の土台に立つことができない。大学のことを知らない人と何かまともな話ができるだろうか?ここで言いたいことはそういうことだ。(まとめが雑)


▷冷静な議論のために必要な学問における「教養」

教養=culture:”culture=文化”という意味もあるが、要するに「教養」が特定の社会集団で共有されるようになったものが「文化」なのである。


◆(西欧の学問の伝統における)「教養の本質とは何か」

→「知的な討論をするための基礎的な能力」

(前略)「適切な根拠を示しながら自分の意見を示し、相手と理性的にコミュニケーションするための基礎訓練ができていること」ということになると思います。(本書P150より引用)


◆教養が目指してきたもの

→言語を通じて自分の中に入ってくる情報をきちんと処理しながら論理的に思考する能力を身につけること=学問的な真理を探究するために必要な姿勢


◆教養を身につけるために「古典を読め」と言われる理由

→本来は第一に、「言葉の正しい使い方」を身につけるためにその意義がある。

言葉(文章)=思考を展開するための媒体。

つまり、古典は思考を表現するための基本的な文章のパターンを学ぶのに最適な教科書であり、それらを学ぶことで自分の文章(言葉)をかたちづくるのに最適な訓練材料なのである。

大学に英語教育・第2外国語教育がある理由は、本来は古典を理解するための言語の習得という柱が重要視されていたから。


「外国語を話せない者は、自国語を知らない」

→外国語を学ぶことによって、自国の言語の構造を客観視できるようになるから。

言語=思考の骨組みとなる

※安易に「大学における生きた英語教育」へ方向性を定めることはこの視点をふまえたものなのか?また、この理解を得た上で英語教育に臨んでいる教員は果たしてどれくらいいるのか。



ー読了後ー

この本はバカになるのを防ぐ対処法ではなく、「学問に対する超基本的なマインドセット」を教えてくれる本であった。

また、学問的な視点からみるバカの定義もこの本ではっきり整理できた。バカか優秀かは「教養がある人間」かどうかで選別できる。

本書の最後に著者の意見として次のような内容があるので一度目を通してほしい。

(「教養」において最も大事なことは何かについての著者の意見)それは「『今の私にはわからない問題』に直面してしまった時に、どうすべきか」を心得ているということです。(本書P193より引用)

簡単にまとめれば、バカか優秀かは、「自分の無知状態、もしくは知識を補強する必要がある場面に直面したときの態度でわかる」ということです。

そして、その鍵を握るのが「教養」の有無。


教養がある人の態度は勉強を重ねれば重ねるほど謙虚になる。

バカは逆にどんどん傲慢になる。


過去のわたしはやはり「バカ」だった。今の自分でも心当たりがある部分は多い。バカかどうかがわかる指標、それは「思考停止」しているかどうか。

プライドが邪魔して自分が正しいと思った情報しか受け入れなかったり、単に物知りなだけでなのに鼻を高くしていたり...本書を読んでいる間、いい意味で心当たりがある場面があるでしょ?とずっと検診してもらっていたような感覚だった。まさに本書を読む=「バカ」の治療だったわけだ。


そもそもバカか優秀かの判断さえできる土台にいない学生もいるのではないかと冗談抜きで思ったりもする。さて、どうする、心当たりのある大学生。学生は自分からそういったことに気づく環境に身をおく努力をしないと、今直面している現実を変える術はないらしい。


おい、人の心配なんてする余力があるのか?ーまだまだバカな自分。


ここに書かれていることは「学問」に限らず、人生の学びすべてにおいて大事な心構えが学べると生意気ながらに思っている。こんな良書に出会えて本当に感謝。


(文字数やべえ。最後まで読む人いるのかな...。長すぎる...。)


ぜひ、今回の記事が参考になったら嬉しい。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


(引用元:『知識だけあるバカになるな!』(仲正昌樹)より)






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