暮らしにアクセントを置く
アクセント とか アポストロフィー とかエクスクラメーションマーク とか。
そんなカタカナを覚えるのが、子どものころは面白かったのは、どうしてだろう。
暮らしを営む
私は、料理をつくるのが好きだ。
帰って妻と一緒に台所に立つ時間が何より幸せ。
私は、掃除をするのが好きだ。
寝る前にかけるクイックルワイパーは気持ちがいい。妻には、好きな掃除ばっかりやって!
なんて言われることもある。
私は、洗濯物を最近綺麗に畳めるようになった。
妻と並んで、ここ!なんてシワのよっているところの注意を受けながらも、うまくなったなあっと自画自賛している。
家事という営みがある。
かつては、女性の仕事のように捉えられていた、この一つ一つの営みは、本当に仕事なのだろうか。
自分の服が汚れたら、洗う。
自分のお腹が空いたから、食べる。
自分が暮らしていて汚れたから、掃除する。
家事とは、生きていることそのものである。
だから、暮らすということそのものだと思う。
仕事をしているだけじゃあ、どうやら私たちは生きていけない。
お金を稼ぐだけじゃあ、どうやら私たちは生きている心地があまりしなくなる。
だから、私は暮らしと仕事は言い分ける。
平日の帰ったあとや休みの日に家事をする
暮らしの時間が私を豊かにしてくれる。
仕事とは
では、仕事とは何か。
『他人の役に立つことをする。』
これが私は仕事だと思う。
私ではない誰かが少し楽になったり、幸せになったり、満たされること。
それが仕事。
私たちは、たくさんの仕事に助けられて、日々の暮らしている。
だからこそ、私の仕事も大切なものだと言える。
ただ、誰かのためだけに過ごしていたら、私はどこへいってしまうのだろう。
自分は誰かのためにあるような気さえしてしまうだろう。
そんなはずはない。
だから、私は暮らしにアクセントをつける。
人生において暮らしを強調して、過ごしていく。
自分のことを自分で大切にする。
そんな暮らしの営みの繰り返しが、私という人を温もりのある人にしてくれるはず。
そうすれば、誰かのことだってもっと幸せにできるかもしれない。
女性は家事を、男性は仕事を。
そんな時代ではないことは、明らかで。
でも、どこかで暮らすことも余計な仕事になってしまっているような気がしている。
悲しいことが起こってしまう前に
暮らしの中にはきっと、仕事も含まれるのだろう。
けれど、私はそこにはしっかりとした境界線があるはずだと思う。
その境界線を引いた時に、私は仕事を好きになれた。
暮らしが私を豊かにしてくれるものだとすると、仕事とは何だろうと考えた。
暮らしの中で心満たされた自分が、誰かの役に立てるそんな自己表現の場が仕事。
だから、今日も笑顔で、穏やかに、温かく。
暮らしを通じて感じる心地よさを大切にした自分で子どもたちと接することができる。
仕事が生きること、それ自体になるはずはない。
そんなことをしていたら、自分を見失うことになってしまう。それは、当然のこと。
子どものことを大切にできるゆとりを
学校は、教育委員会は、国はまだつくり出してくれない。
それを待っている時間はないから
自分でつくっていこう。
子どもが悲しい思いをする前に。
教師がいじめ、そんな悲しいニュース。
けれど、世間は優しいなと思った。
教師は忙しいと言ってくれる。
でも、そんな優しさじゃ言い訳できないよ。
私たちはきちんと責任があるんだから。
しっかり、向き合おう。
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