死の距離
はじめに
2020年を生きる私たちは、”歴史上最も死との距離が遠い時代”を生きている。
低下し続ける乳幼児死亡率
伸び続ける平均寿命
飛躍的な進歩が止まらない医療技術
もはや一過性のブームではなくなってきた健康志向の高まり
殺人事件の急激な減少
少なくとも戦後からはずっと続いている平和
私たちはどんどん死ににくくなっている。
今を生きる私たちと”死”との距離感はどんどん離れていく。
それが今後ずっと縮まることはないように思われる。
しまいには人間の英知は”人と死との距離を絶対的に引き離してくれる”とさえ思わせる。
一方で、今からわずか200年前、江戸時代には”人と死との距離”はもっとずっと近かった。
戦国時代にはもっともっと”人と死は密接”していた。
その時代の人々は『自分が死ぬということ』をずっと強く意識していたし、常日頃から自覚してもいた。
生と死はまさしく”表裏一体”だった。
80年前の太平洋戦争中の日本人もそう感じていたことだろう。
そう考えると、今の日本人のほうが異常性を帯びているのかもしれない。
”死”を頭では理解しながらも、どこか他人事にして、頭のすみに追いやって考えなくてもすむように生活している。
確実に”死”は私たちと隣り合わせであるのに、まるで見えないふりをしている。
「自分にはあと数十年もの時間がある」
「自分が突然死ぬようなことはない」
と信じて疑わない。
でも環境こそ違えど、『死と隣り合わせに必死に生きていた前時代の彼ら』と『今を生きる私たち』は本質的になにも変わらない。
私たちは彼らと同様、10年後の自分のことはおろか、明日のこと、1時間後のことだって分からない。
明日、突然大病が発覚するかもしれない。
今日の夜、帰宅途中に事故にあうかもしれない。
今から10分後に空から隕石が落ちてくるかもしれない。
「そんなことはない」と令和の私たちは笑うが、誰にもその可能性を否定することはできない。
逆に言えば、我々人類の歴史は、そういう『死のリスク』との戦いだった。
私たちの先達はなんとかして”死の可能性”を引き下げようとした。
”私たちと死との距離”を引き離そうとした。
頭を使って、それこそ死に物狂いで”死を遠ざけよう”とした。
車に関係するものに限ってみてもシートベルトも、チャイルドシートも、エアバックも、自動ブレーキも全部そうだ。
なんとか”死を引き離そう”とした努力の結果が今の環境を作り上げた。
人間はどんどん死ににくくなっている。
そんな時代を生きる私たちは、距離が離れすぎた、でも確実に私たちを待ち受けている”死”とどう向き合えばいいのか。
このnoteでは今一度、普段意識しない”死”というものをまっすぐにみつめてみたい。
”死”とはなにか
そもそも”死”とはなにか。
この点に答えを与えてくれるものは無数にあるが、今回はその中から宗教にスポットライトを当ててみる。
元来宗教は民衆を精神的にサポートしてきた。
信仰を柱として人々を導き、救済してきた。
とくに”死との距離が近い時代”において宗教はその活動を活発化させ、死を恐れる人々に”死を理解させ”てきた。
面白いのはキリスト教で、聖典である『聖書』は”死は無である”と教える。
つまり”Death is Nothing.”の精神だ。
「死ぬことはなにほどでもない、みんなに等しく訪れる平等にすぎない」
「死後に痛みや苦しみを感じることはない」
「安心しろ、死はすなわちすべての終わりである」
こうすることで『死をポジティブなもの』にした。
次も面白い。
仏教はこう説明する。
「死ぬことこそ救い」
「生きていることは苦しみ、痛みを意味する」
正しい行いをなさないと永遠に生きるという苦しみ(=輪廻から解脱できない)を味わうことになる、と教えた。
生きることなど死という試合終了までのロスタイムにすぎない、とでも表現すればわかりやすいか。
『生をネガティブ』に表現することで、相対的に『死をポジティブなもの』にした。
このように死と隣り合わせの厳しい時代を生きる人々に”死をなじませて”いった。
民衆はこうやって教えを受けてはじめて”常に意識していた死”を意識のすみに追いやることができたのだ。
それは常に死の恐怖におののいていた時代人にとって、安楽や安らぎを意味した。
宗教が死を解釈し、死に理由付けをして、それを教えた時、宗教は民衆にとって”死の恐怖を克服するツール”となった。
死との距離感
いつの時代も、死との距離感が近い時代はとくに、人々は”死”におびえて生きてきた。
だからこそ”死”に原因と理由、そしてその結果を求めた。
そうやってなんとか”理不尽な死”を理解して、受け入れることでこの恐怖を克服してきた。
それに反してどうだろう、2020年の今を生きる私たちは。
人間としてはなにも変わっていない。
ただ宗教がその権勢を失い、科学にとってかわられただけ。
そしてその科学は”死”について実にキリスト教的な説明をする。
つまり”死は無”。
神経も感覚も、思考も権利も財産も、すべての喪失。
それが”死”なのだと。
そして科学は”死”を定義する一方で、その”死”を私たち人間から引き離しできた。
冒頭で考えた自動車の安全装置が好例で、科学技術がもたらした”安全”が”死”をずっと遠くへと押しやってしまった。
だからこそ私たちは”死を遠いもの”だと思い込んでいる。
でもそれは正しくない。
”死”はただ遠くにあるように思えるだけで、ずっと私たちを待っているし、今までもそうであったように、これからもずっと私たちの近くにあり続ける。
そしてその”遠くにあるように見える死”は、ある日突然に私たちの前に現れるかもしれない。それも私たちが思ってもいないような時に。
あるいはゆっくりと、じわじわと近づいてくるかもしれない。
どんな医療技術をもってしても、どんな安全装置をもってしても、いずれ”私たちと死の距離はゼロ”になる。
その時がいつなのか、10年後なのか、1か月後なのか、はたまた明日なのか、5分後なのか……。
私たちにそれを知るすべはない。
ただ、確実に言えるのは、『必ずその時が来る』という事実だけ。
そういうふうに”死を意識して生活する”と、見えてくるものがある。
それが、”今を生きる”ということ。
だからこそ生きる
たとえ今から100年たっても人間は”死”そのものを克服することはできないだろう。
でも”死との距離”を今以上に稼ぐことはできるかもしれない。
そうなれば、今よりもっと人が死ににくくなる時代がやってくる。
そうなっても変わらない2つの事実。
それはいつか”死との距離がゼロ”になる時がくるということ。
そして私たちは”その時”がいつかをどうあがいたって知ることはできないということ。
であれば、私たちに確実に与えられた”生きていられる時間”は今この時しかないことになる。
であれば、私たちが自分の生き方を自分で選び取れるのは”今”なのだということになる。
未来は不確実。
明日のことさえ、不確実。
確実なのは、ただ今この瞬間のみ。
だから”死から遠く離れた”私たちは、”死から最も遠い時代”に生きているからこそ、今を大切に生きなければいけない。
たったひとつ残された確実な時間を、私たちは無駄にしてはいけない。
1週間後に死ぬことが確定したら、あなたはどうするだろうか?
それでも今の仕事を続けるだろうか?
それでも今のようなライフスタイルを貫けるだろうか?
それでも「まったく悔いのない人生だった」と誇れるだろうか?
私たちは確かに”死から最も遠い時代”に生きているが、”死から隔絶された時代”を生きているわけではない。
つまり誰にも”死”は訪れる。
それがいつか、どんなかたちでなのか、それさえもわからないまま、私たちはもしかしたら”突然に人生を終える”ことになるかもしれない。
だからこそ、こんな距離感のある時代に生活しているからこそ、私たちはいつも”死を意識”して、”死におびえながら”生活すべきではないか。
自分が突然”死ぬ”となったときに、後悔しないために。
——”生きていたんだよな”を聴きながら。
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