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[小説 23時14分大宮発桜木町行(3)]桜舞う道で

 乱暴に座席に腰掛けると、緊張感がようやく抜けた気がした。

 これほど大荷物で移動しているのだからと躊躇なく大宮発を選んだ俺を、恥ずかしげもなく褒めてやろうと思う。親の手を離れてしまってからは、褒めてもらえる機会などほぼ皆無なのだから。

 最終日。昨晩の送別会の余韻を微塵も感じさせない同僚たち。あっさりとしたものだ。まるで昨日までの外回りに出掛けるかのように、別れを告げた。

 支社の入るビルを立ちすくんで見つめていた。タクシーの窓から離れていく、俺の居場所。泣きはしないが、寂しくはあった。

 そんなものなんだな。独り身での最初の転勤ではなかった感情だ。誰かとの繋がりに敏感になってしまったのだろう。夫であり父親でもある身である今だからか。

 

 5年も経ったのか…栄転し役職が付き、ただ懸命にやり続けた。見知らぬ土地での自らの土台作りはもちろん、後輩や他部署との間で奔走し続けているうちに、時は過ぎていたのだ。どおりで有彩もこの春に中学生になる筈だ。

 雪を被る山々や枯れ草のなびく風景が過ぎていく新幹線の中。支社での日々の余韻でぼんやりとしていた。
 車窓の奥に流れていく曇天の闇、低いビル群や住宅地を眺めているうちに、明日からの家族との日常に思いを巡らせる余裕も出てきた。

 有彩の入学式に出席できること。それが嬉しい。そして、美佑紀には苦労を掛けたな。

 

 家族を最優先にとの思いに嘘はない。だが、会社勤めの身で仕事を疎かにもできない。

 「口で言うのは簡単なのよ」

 「じゃあ黙って聞いていりゃいいのかよ」

 「聞いてもらえるだけでいいこともあるのよ」

 「そんなの分かんないよ」

 分かっていた。独り身の気楽さを。残業も厭わない日々を、充実した日々と意訳している都合の良い俺自身を。

 そんなんだから、二人の子育てを一手に引き受け続ける彼女の機微に気付けない。分かるわけない。ましてや物理的な距離があるのならばなおさら…

 

 思いをぐるぐる巡らせているうちに、気付けば南浦和駅でドアが開いた。ここで乗り換え。
 いつもの嵩張る営業鞄を載せたキャリーバッグを膝で押しつつホームに降り立つ。口を尖らせてフッと一つ息を吐くと、冷たい風に鼻がツンとした。

 いつもの癖でエスカレーターに足が向く。よいしょ。少し無理があったか。スペースを多少占領するのも仕方ない。荷物が滑り落ちないよう、降りるまでの我慢だ。

 乗り換え通路のこの空気も懐かしい。荷物の重みのせいではなく、武蔵野線ホームへの歩みがゆったりとなる。エレベーターの待ち時間もなんてことない。

 

 彼女の代わりに家事をする俺。子供の行事を引率する俺。うーん、想像がつかない。

 有彩の幼稚園年少時の運動会と、美佑紀が風邪で寝込んだ日と重なった、陽斗の予防接種には行ったけれど…どれだけ黙って美佑紀が全部やってくれていたのだろう。皿洗いや掃除を手伝ったことさえ…いや、もともと俺、まともに家事をやった試しがないぞ。

 東京止まりの電車を一本やり過ごし、南船橋行をホームで待つ。

 上り電車がホームに滑り込み、電車に押し込まれた風に吹きつけられて、ようやく事の重大さに気が付いた。

 ヤバいぞ俺、家のこと何にも知らないし、何もデキないじゃないか。

 

 両立なんて簡単に言える訳がない。会社を辞めてフリーランスになれば家族との時間が割けるって?営業のフリーランスなんて聞いたことない。売り物になる技量など何も持たない俺に、そんなことできると思うか?

 多少のマネジメントを武器に起業する?おい待て。起業なんてしたらいよいよ仕事漬けで家族を置き去りにしてしまう。借金もするだろう。もしも上手くいかなかったら…

 良くない良くない。そもそも本気で考えたことがないことを考えるから、抜け出せないループに嵌ってしまう。

 車窓の向こうに、見慣れた景色がぐんぐん近付く。その景色と同じペースで、俺は現実に戻っていった。

 まず、現状を知ることが大事だ。

 

 北口改札をすり抜けてコンビニで挽きたてコーヒーを手に取り、一口飲んでフッと一息つく。ロータリーに見覚えのある車を見つけた。気持ちばかりの小走りで車に近寄り、車内の美佑紀に向けて窓をノックした。

 「待ってましたー。おかえりぃ」

 窓をウィーンと開け、本来のカラッとした調子で迎えてくれる。

 「ごめんごめん、待たせた?」

 「ぜーんぜん。で、いきなりお願い。運転代わってもらえる?」

 いいよと言って荷物を後部座席に押し込んで席を代わる。美佑紀カスタマイズの座席とハンドルの位置を俺仕様に変更。

 「さて、どこ行く?」

 「まずは、今晩の夕飯ね。何にしよっか」

 妻の作る唐揚げが俺の大好物。生姜と塩の加減が絶妙なのだ。

 ちょっと待つけどいいかなと聞くので、もちろんと答える。だったら量が要るねと、向かうスーパーを指定され、はいはいと右折レーンへ移動する。

 「陽斗は今度の大会、やる気出てる?」

 長男の陽斗は地元のバドミントンクラブに一年ちょっと通っている。テレビで観た試合のスピード感を格好いいと思い、自らの意志で始めた。

 親のひいき目を排除しても基礎を早く習得しており、順調に上達していると思う。だが中学年クラスにもなると、より経験のある子達の後塵を拝している。ミニゲームでも負け続けの最近は、練習に行くのが億劫そうだと、美佑紀から聞いている。

 「出るって。クラブ外の子との対戦なら気分転換になるかもって、ちょっと復活」

 「それなら良かった」

 「トーナメント表を見て『ガーン』って。低学年で準決まで行った千葉の子と当たるって、頭抱えてた」

 「はは」

 スーパーの立駐に到着。ウインドウを開けて駐車券を引き抜く。

 「さすがにこの時間は混んでるね…」

 「あなたが運んでくれるから、遠くに停めてもらってもオッケー」

 

 カートを押しながら大判のモモ肉売場へ向かいつつ、野菜をポンポンカゴに収める。菜の花にふきのとうか。天ぷらしてよとお願いして俺の手で二パックずつ入れる。

 なんとなく機嫌が良さそう。モモ肉を無事確保した後、彼女に訊いてみる。

 「ねえ、仕事復帰したいとか思ってる?」

 最近ハマっているらしい生乳ヨーグルトの在り処を探す顔が、俺のほうを振り返った。

 やはり今日の彼女は機嫌がいい。これまで一度たりとも尋ねたことがない質問に、ケロッと答えた。

 「突然何?そうねぇ…したいかなぁ」

 そりゃあそうだよな、やっぱりね。

 二歳年上の彼女は俺より、知力も体力も優れている。都市銀行の法人営業として、並居る強者を相手に成績を残していた。成績優秀と表彰状を受け取ったと、付き合っている頃に見せてもらったことがある。

 これまでは母という立場上、子供を護ることを最優先にしてくれただけのことだ。男も出産できるのであれば、俺が代わりにできるならば、そうしたかった。
 そのほうがきっと今より収入がいい筈だし、今頃彼女は女性の先陣を切って本社の重要役職に就いているに違いない。

 「どんな仕事が私に合うと思う、陸斗?」

 「えっ!?」

 おいおい、名前で呼ぶなんてどうした。久し振り過ぎて素でビックリする。そして何か意図があるのかと訝る。

 「成果がはっきりと出るものが好きなんじゃないの?営業とか」

 一人増えると買うもの増えるねーと適当な言葉を挟んだ後、

 「そっかぁ。あんな体力が要る仕事は、もういいかなー」

なんて想定外の言葉を平気で言ってくる。

 

 会計を終えると彼女から渡されたどデカいマイバッグ二つに、嵩も重さも張る食糧を隙間なく手早く詰め込む。これだけは母親の手伝いで慣らせた俺の得意技だ…しかし、こう重いと指に食い込んで痛いな…

 「で、これからは家事分担できるのよね」

 トランクに食糧を積んでいる最中に本題をいきなりぶち込むので、素でビクつく。

 「あぁ、管理職は率先して早く帰ったり休まないと、示しつかないしね」

 ドアを開け車に乗り込む前に、同じく助手席に乗り込もうとする美佑紀と目が合った。

 「そうしないと、今日までの美佑紀の苦労も悩みも、分からないだろ」

 そうね、といった笑みを返して助手席に収まる。それを見て、俺もようやくスッと心が軽くなった。

 

 「でさぁ、私、起業しようかなーって」

 「はいっ!?」

 うわぁー。話の途中をここで再開したかと思ったら、想定の斜め上をいく答えが返ってきましたよー。

 驚かすから、精算機に駐車券が入らず路上に落としたじゃないか!慌ててドアを開けて舞い飛んだ駐車券を拾い、取り敢えず無事精算は完了。
 路上に出てから言われなくて、本当に良かった。絶対に事故する。

 

 俺の単身赴任中、子供達が学校に行き始めるにつれて出てきた余裕を使って、美佑紀は起業に向けた準備を着々と進めていたのだ。
 家に着いた後彼女の部屋を覗くことで、捲り跡や付箋で膨らんだ書籍群など、その奮闘程度を目の当たりにするのだが。

 「立地も資金も、ある程度目途立ってる」

 銀行の若きエースだったのだから、そりゃあ抜かりないに決まってる。

 「で、何売るの?扱うものは?」

 運転する者にとってはなんとも連動の悪い信号に止められる。だがこの直線をもう少し走って左折すれば、我が家が間もなく見えてくる。
 この道に並ぶ赤い芽でいっぱいの木々は、もうすぐ桜色に染まる。入学式まで、花はもつだろうか。春の嵐で花吹雪を降らせるだろうか。

 既に何ら想像がつかないので、これまでのような驚きはもうないだろう。

 「茶葉と漢方を取り扱おうかと。カフェも併設しようかと思って。利益はまだあてにはしてないんだけどね、スパン長めでじっくり黒字に近づけていければって。どう?」

 我が子向けに相当な頻度で焼菓子を作り、腕を上げたらしい。今度食べさせてよと言うと、漢方入りのを試す予定だからそれをと返された。
 うーん、それは美味しいのかなー。

 「もう準備万端じゃあない。すぐ始められるんじゃない?」

 俺に向けてチッチッと舌打ちしながら人差し指を横に振る。我が子たちからも大分手が離れてきただろうと言うと、問題はそこじゃないとまたチッチッと言ってきた。

 「陸斗がある程度家事ができてからじゃあないと、ウチ回らないでしょう」

 ね、そう思わない?こっちをじっと見つめていることに、バック駐車で左を振り返った時にようやく気が付いた。不敵な笑み。

 「そりゃあそうだ」

 そうか、なるほど。俺の頭はやっぱりカタい。両立するために俺がフリーランスだなんて方向が全く違ったよ。
 俺は俺の領分の中でできることを、まずこれから覚えなければ。 

 美佑紀がしてくれたことを、どこまで引き受けられるか。そこだな。

 さて、ウチに着いたぞ。陽斗がワーっと嬉しそうに扉を開けて飛び出してきた。有彩はまだ部活中か。重いぞと言う僕から陽斗は営業鞄を奪っていく。

 帰ってきたんだなぁ…ようやく。改めて実感できた。

 「風呂、まだ洗えてないじゃないかぁ。着替え、いつものとこでしょ?俺洗うからちょっと待っといて」

 そう、まずは現状を知る。そして足りなかった、もしかすると家族に遠慮させていた会話を、もう一度やり直そう。

 美佑紀が上手くいくように。有彩もそう、陽斗だってそう。そして俺だって上手くいくように。

 なぁ、家族って、そういうもんだろ?


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