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介護books④「家族介護者の気持ちが分からなくて、悩んでいる支援者へ(差し出がましいですが)おススメしたい6冊」

 臨床心理士/公認心理師の越智誠と申します。
 元・家族介護者でもありますが、介護を始めてから、「家族介護者の心理的な支援」の必要性を強く感じ、臨床心理士を目指し、今は、家族介護者に対して「介護相談」の仕事もしています。

(詳細は、「介護離職して、10年以上介護をしながら、50歳を超えて臨床心理士になった理由①」から、読んでいただければ、幸いです)

 こうしてnoteを書き始めた動機の一つが、「家族介護者の気持ちへの理解が、まだ進んでいないのでないか」という思いです。すでに、ちょっと偉そうですみませんが、介護に関わって20年くらいがたち、専門家としても働き始めているのですが、その感触は、それほど変わっていません。

 それで、とても小さいとしても自分の責任でもあると思い、家族介護者への理解が少しでも進んだら、と思いながら、毎回、書いています。

 家族介護者に関わっていると一口で言っても、資格だけでいっても、かなり幅が広いと思いますが、支援に関わっていらして、今、家族介護者との関係がうまくいっていない、気持ちが分からない、と感じていらっしゃる方々へ、差し出がましいですが、今回は、6冊の本をオススメしたいと思います。それぞれタイプが違うので、ご自分に合いそうな著作を手に取っていただけば、と思います。(紹介の文章の長さの違いは、私の技術不足にすぎず、オススメの度合いは、基本的に同じです)。


「老いを育てる  在宅介護のエトセトラ」 宮崎詩子

 家族介護者の方が書かれた本です。
 孫として、ご自分の祖母を在宅介護で看取りまでされた人です。
 私も家族介護者の端くれだった経験はありますが、とても、こんな完璧に近い介護ができる気はしません。
 それでも、この本を読んだ印象は、とても率直で、表向きはなかなか言えないことを、きちんと伝えてくれている、というものでした。

在宅介護は、素人が行う医療行為です。プロの10倍時間がかかります。一つひとつ迷いながら、ドキドキしながら、そしてガッカリしながら続けていくのです。その姿は、プロから見れば「考えが甘い、先は見えている」という印象を持たれることになるのでしょう。それは、家族自身が一番痛感していることなのです。それでも、タイムカードの音と共に平穏なプライベートに戻れるプロ達とは違い、家族は介護を手放すことも手を止めることもできません。もしも、その手を止めたら、目の前の命が確実に消えていくことを理解しているからです。止めることは「自然死」とは思えないのです。

 表現の強さみたいなものに、抵抗感を覚える方もいらっしゃるかと思いますが、家族介護者であれば、大なり小なり感じていることを、かなり正確に言語化しているのでは、と思います。
 専門家の方が読まれた場合、ときおり、反発を感じる可能性もありますが、その反発した理由も含めて考えていけば、より理解が深まる可能性があると思います。引用した部分以外にも、おそらくは、あまり触れることの少ない「介護者の本当の気持ち」が書かれている本ではないでしょうか。

 家族介護者の気持ちを理解する上では、率直に書かれている分だけ、欠かせない1冊ではないかと思います。


「ありがとう 和ちゃん」  野田明宏

「息子介護」のドキュメンタリーの「主人公」としても登場されている方なので、ご存じの方もいらっしゃるかと思います。

 ご自分の母親を、独身・一人息子である筆者が在宅介護をしていて、そして、その介護が終わる話です。母親を亡くされてから書かれた本ですが、それまでの介護の話にも触れられていて、そして、時間がたった分だけ、冷静に表現されている部分もあるので、初めて読まれる方にも、抵抗感が少ないかと思います。

 というのは、やはり、一見、強く激しい表現が多く感じますが、それでも、家で1対1で介護をされている方だったら、かなり共感できることが多い内容だとも思います。もし、この本や、この著者の他の本でも、言葉が激しく感じるとすれば、それは、より正直に、より正確に書いている、ということでしょう。それは介護者でありながら、同時にこの著者が介護をしながらも、介護ライターとしてプロの書き手であることも大きいのでは、とも思います。プロのほうが、無駄な修飾をせず、そのままの光景、そのままの気持ちを伝えるはずだからです。

私は、虐待者と呼ばれてもおかしくない時期があった。和ちゃんを叩いて肋骨2本を骨折させてしまったり、手を上げて足蹴にもしながら発狂寸前の状態で在宅介護をしていたこともある。この頃のことも、自分のホームページで記しているが、今それを読み返すことはない。できないのだ。辛すぎて…。

 男性介護者だから、というのではなく、おそらくは、介護者であれば、程度の差はあっても、こうした状況が皆無という場合の方が、少ないとも思います。
 「和ちゃん」というのは、筆者の実母のことなのですが、なぜ、名前で呼ばざるをえないのか、それに関しては、筆者自身も明確な答えを語っているわけではないのですが、こうした点を考えることも含めて、介護者の理解ということでは、得るものが多い本だと思います。


「ケアへのまなざし」 神谷美恵子

 ハンセン病の患者を支え続けてきた精神科医の著書です。
 この本では、昔からの呼称である「らい」が使われていますが、その患者は安直な推察すら許さないような厳しい状況に置かれている人たちであり、そうした人たちへ関わり続けた中から、書かれた本であることは間違いないとも思います。

 ハンセン病の患者に対しては、棄民としか言えないような施策によって、隔離され、伝染性の病気とはいえないと分かったあとも、療養所で暮らさざるを得ない人たちがいる。私自身も、恥ずかしながら、この本で、その大変さをほんの少しですが、想像できるようになりました。
 そんな人たちと関わってきた著者の経験から、こうした言葉も生まれていると思います。

自殺をただいけないこととして、簡単に片づけることはできない。むしろ、生きている以上は、人間らしく生きたい、つまり人間としての自分の生活になにかの意味や内容を感じて生きたい、という生への積極的意欲と願望のうらがえされたものとして、自殺というものを見るべきなのではないか、と考えられてくる。したがって臨床の場にある者は、ただ患者の病気だけに目を奪われず、こういう人間性の根本的事実をつねに念頭において、患者という人間存在に接しなければならない。 

 そして、セラピストといわれる人たちの中には、その人の存在そのものが、患者やクライエントを、本質的に支えていく人たちが一定数いる、と個人的には感じていますが、この著者も、その一人ではないか、という印象が残りました。そうした人たちは、本人が意識しなくても、どこか畏怖を感じさせます。それは、たとえば、こうした思いを、著者本人が率先して実行していそうなところから生じているように思います。

弱者に対する強者の優越感というものは医療の場では極めて起こりやすいことで、しかも強者自身は案外気づいていないことが多いのではなかろうか。(中略)だから唯一の可能な道は「自分もまた病みうる者だ」「自分もまた死にうる者だ」ということを、絶えず念頭においておくことだろう。 

 こうした本を読むと、私自身も反省するような気持ちにもなります。高齢者介護とは、直接は関係ないような著者の書いた本ですが、誰かを支える、という本質的なことを考えさせられる本であると思いました。

 悩んでいる時こそ、様々なところから、重要な視点を学ぶ力が強まっている時間だとも思いますので、もし、興味をもたれたら、この本を手に取り、さらには、この著者の他の本も読むと、知見が広がっていくのでは、と思います。


「介護殺人  司法福祉の視点から」   加藤悦子

 司法福祉論を専門とする研究者が書いた本です。
 専門書ですので、文章はやや硬く、読みにくいかもしれません。
 ただ、この本の中には、研究者だからこそ知り得た、通常なら手に入れるのが難しい裁判資料から、介護殺人を犯してしまった家族介護者の声に触れているので、貴重な記録なのは間違いありません。

 こうした本を読むと、介護殺人が、おそらくは家族介護者であれば、本当に紙一重の出来事で、これは不遜な見方なのかもしれませんが、本当に他人事ではない気持ちがするのではないでしょうか。家族介護者は、こうした事件を起こさないとしても、気持ちとしては、かなり、同様な状況にある人も多いように思います。

 今、支援者として、家族介護者とうまくコミュニケーションがとれなくなっている場合も、もしかしたら、介護者が追い詰められているから、拒絶的になっている可能性もあるかもしれません。たとえば、この本の中で、事件を起こしてしまった介護者が追い詰められていく部分はこう記録されています。

1日に8回トイレ介助を行っていたにも関わらず、Mの失禁は続いた。Sはそのたびに着替え、陰部の洗浄、汚れ物の洗濯を繰り返し、心身の負担はますます多くなっていった。Sは失禁の時、Mの腿をバチンバチンと平手で何度も殴ったり、母の頬を平手で殴ったりするようになった。Sは精神科医の医師や訪問看護師、ヘルパーに「どうしたら母に対する暴力を辞めることができるか」と相談した。だが、精神科医は新しい薬を処方しただけだった。訪問看護師もヘルパーも「長い目でみましょう」と言うだけだった。Sは結局暴力を辞めることができず、ついにはリハビリを嫌がるMの額を拳骨で殴ってしまった。Mは倒れ、Sは慌てて以前入院したA病院に連れて行ったが、レントゲンで見る限りは骨に異常はなく、Mはそのまま自宅に戻ってきた

 克明な記録ですが、読んでいても辛くなるような部分で、そして、この周囲の専門家を責めることは決してできませんが、それでも、不遜な思いだとしても、もし、似たことに遭遇したとして、何とかできる方法はないだろうか、というような気持ちにはなります。そのためにも、平凡ですが、自分ももっと精進しないと、といったことを改めて思ったりもします。 

 読むと、精神的に負担がかかる本でもあると思いますので、できたら、ある程度余裕がある時に読んでいただければ、介護者の気持ちを理解する上で、重要な本であると思います。特に、家族介護者が、どんな時に、追い詰められやすいか、追い詰められた時に、どのような言葉を発しているか、を知ることは、支援者にとっては有益なことだとも考えています。


「家族が認知症になったとき」  安田美弥子

 筆者は、看護学の研究者であり、大学の教授でもあります。この著書が、最初は1995年発行であり、だからなのか、登場する専門家や家族など、家族介護者の周囲の人たちが、どこか信じ難いほど、ひどい接し方をしていて、それで介護者がダメージを受けているような姿も目立ちます。

 今は、ここまでのことがないと思いたいですが、逆にこうした極端な例を知ることで、新たな視点を得られる可能性もあるかと考え、紹介することにしました。

 たとえば、家族介護者と、入所の職員とのこんなすれ違いは、今では考えにくいと思います。

職員の方とのあいだに誤解もありました。「職員の方にはいつもよくしていただいていますが、母が帰りたがるんですよね」と私の言ったことが、「もうここへは置いておけない。連れて帰る」と言ったように取られてしまい、それが主任の耳に入って、一時は職員みんなにそっぽを向かれてしまったこともありました。

 それでも、今でも基本的には同じだと思えることもあります。
 施設に入所している家族を持つ介護者の言葉です。

現実は“人質”をとられているようなものですから、家族は言いたいことも言えないのです。その場では、職員の機嫌を損ねないように、少しずつ主張していくしかありません。

 また、以下に引用していることは、今はかなり減ったと思ってはいるのですが、ただ、どれだけ気をつけても、ゼロにするのは難しいことだと、私自身も思います。そして、おそらく今でも、こんなことがあったとしても、その支援者本人に伝えられる確率は低いので、気がつかないまま、かと思うと、怖くもなります。

たとえ一時間でも、ヘルパーさんやボランティアの方が来てくださるのがうれしかったのです。ただ、こちらに心のゆとりがないものだから、何か批判めいたことや諭すようなことを言われると、つい拒否してしまいたくなります。軽い気持ちで言われた一言に、思いのほか傷ついてしまうこともありました。

 大学の先生は、理論だけだから、というような見方がされる場合もありますし、確かにそう思えてしまうような場合もあります。ただ、この著者は、自身の経験や体験と、理解しようとする姿勢の持続によって、生きた理論にしているように感じました。

看護師が重症でとても手のかかる患者さんを看取れるのは、それが仕事であり、八時間たつとそこを離れることができるからなのです。家庭でお年寄りを介護するとなると、二四時間勤務を強いられ、しかもストレスの発散場所がありません。そのうえ給料という、働きを認めてくれる報酬がありません。男性の仕事より何倍もストレスがたまる仕事にもかかわらず、理解してくれる人がどれだけいるでしょうか。

 引用した部分に興味を持たれた場合は、著書もぜひ読んでいただければ、と思います。


「母子関係からみる子どもの精神医学」  小林隆児

 最後は、また介護と関係なさそうな本になり、すみませんが、著者は児童精神科医であり、研究者として大学での教鞭もとっています。

 「発達障碍」という言葉は、支援者であれば、一度は聞いたことがあるかと思いますが、その発達障碍の研究者として、臨床家として、著者は、かなり独自の存在でもありますが、母と子の「関係」をみてきた専門家として、おそらくこれから、より重要性が増す存在ではないかと、思っています。

 この本は、母子関係について書かれた本で、その実例も豊富なのですが、たとえば、この部分も子どもに対しての理解が進んでいく際の描写なのですが、それは、無理なくもっと一般的な「関係」の中でも、同様に考えられることだと思います。

今、私が話したことは、すべて私自身のこころの動きを内省的にとらえ直すことによってわかったことです。
 私のなかに立ち上がったこころの動き、変化し続けるなかでの動き、ないしその流れ。私はそれをとらえて言葉で表現しているんです。
 この感覚がとても大切なんですね。おわかりいただけたでしょうか。人間のこころを理解するためには、そういうこころの動きをともに感じ取ることがことのほか大切になります。そうした中でしかこころをとらえることはできません。
 そのためには、その人と時間を共にして過ごす。その中で初めて、その人のこころの動きが自分の中にも同じような動きとして立ち上がる。その結果つかむことができる。そういうことなんです

 著者は「母子ユニット」を開発し、その「部屋」の中での、母子の関係や言動を、了承を得た上でビデオに記録し、詳細に科学的な研究を続けました。それと並行して、大学での教育と、臨床の現場での経験を積んだあとでの、こうした発言なので、ただの「気持ちは通じる」というぼんやりとした精神論ではないと思います。

 そうした科学的な方法を積み重ねた上でも、それでも人間のこころを理解しようとするには、自分という人間の「こころ」を使うしかない、ということかもしれません。

 もう一箇所だけ、家族介護者との「関係」介護サービス利用者との「関係」にも通じると思われる部分を引用します。

日頃この人はどんな生活をしているのかということに常に目配りしながら、今の様子をみて、コミュニケーションをとるということですね。
 そういう丁寧な観察がまず求められます。
 さらに、この人は今までどのような人生を送ってきたのか、その人の歴史の中で今を理解する。そのようなことを念頭に置きながら、実際のコミュニケーションを取るときには、言葉にならない言葉に耳を傾けることです。
 なぜこの人は言葉にならない言葉をさかんに言っているのか。
 そこには何かある言葉が動いているんですね

 言葉にならない言葉は、かなり幅が広いことでもあります。
 その人の表情、手や体の動き、発する気配、そこまで気を配って、初めて理解に近づける、といった原則を、私自身もこの本を読んで、改めて振り返ることができました。講座を中心に話し言葉で構成されている部分が多いので、読みやすいとも思います。


 違う視点に触れることによって、支援者の皆様の悩みや負担感が少しでも減ることがあれば、と願っています。そして、いつも介護が必要な方のために、さらに、家族介護者のために、心を砕いてくださっていることに対して、こうした場所では失礼かもしれませんが、改めて、感謝をお伝えしたいと思います。
 ありがとうございます。

 私も微力ながら、努力と工夫と精進は続けたいと思っています。


 今回は、以上です。

 次回は、「介護books⑤介護が終わったのに、介護が終わったような気がしない人へおススメしたい本」の予定です。


(他にも介護に関して、いろいろと書いています↓。クリックして読んでいただければ、うれしく思います)。

介護の言葉① 「介護離職」

介護の大変さを、少しでも、やわらげる方法②書くこと

家族介護者の気持ち③「死んでほしいは、殺意ではない」

『介護時間』の光景① 「母娘」


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