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1996年からの私

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週刊プロレス7代目編集長・佐久間一彦が、三沢光晴、小橋建太、髙山善廣らプロレスラーに学んだ日々の記録。
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1996年からの私〜第1回(96年)できない理由は探さない

自分の記憶を記録にしておこう気づけば週刊プロレスの編集長を辞任し、ベースボール・マガジン社(BBM)を退社してから10年。一度は違う世界に行くことも考えたけど、結局、人が好きで、取材、制作の日々を続けています。ありがたいことに近年はテレビやイベントMCなど、タレントとしての仕事も増え、忙しくも楽しい毎日。基本的には人の話を聞く側のため、自分の話をする機会はありません。 しかし昨年はラジオ、パンフレット、週プロ関連書籍で立て続けに自分のことを話す機会があり、思った以上の反響を

1996年からの私~第2回(97年)流し台工場の怖いおじさん

流し台工場でこっぴどく叱られる大学が春休みになり、部活の合宿で福島にあるクリナップレスリング部へ。クリナップは流し台やキッチンを作っている会社で、このときは消費税増税(3%から5%へ)前ということで、注文が殺到。人手不足を補うため、9時〜17時が工場でバイト、夕方18時過ぎから練習という合宿でした(写真は大学4年時)。 2週間程度の学生バイトなので、大した仕事ではないだろうとタカを括っていたら大変な目に遭いました。実際、ほとんどの部員はダンボールへの詰め込みや部品の接着など

1996年からの私〜第3回(97年)800人に一人の逸材!?

喫茶店での面接。ありのままの自分を評価してもらう97年3月、福島での合宿を終えた私は「週刊プロレス」濱部良典編集長との面接のため、初めてベースボール・マガジン社を訪問。どこか社内の個室での面接になるのかと思いきや、爽やかに登場した濱部さんの第一声は「お昼食べた?」でした。 13時のアポだったため、食べていないことを告げると、プレヤデスという地下にある喫茶店に案内されました。濱部さんは常連らしく、慣れた様子でカルボナーラを注文。面接できている私はここで何を頼むのが正解なのか?

1996年からの私〜第4回(98年)デビュー前から武者修行。そして格闘技通信へ

叩き上げではなく海外武者修行1997年11月の全日本大学選手権を最後にレスリングの世界を引退。4月の内定以来、BBMとはまったくコンタクトをとっていなかったため、内定はなかったことになっていないかと心配で、引退と同時にすぐに編集部に電話をしました。 濱部編集長とコンタクトをとると、今後についての話は年が明けてからとのこと。4月のときはすぐにでもアルバイトに来てほしいと言っていたのに雲行きが怪しい。私が授業と部活に打ち込んでいる間に、別の有望株が現れたのか…と少々不安になった

1996年からの私〜第5回(98年)格闘技通信の日常

仕事はやればやるほど増える打ち出の小槌「格闘技通信」編集部で働き始めた私がやっていた仕事は、以下のような内容です。 まずは写真整理。当時はデジカメではなく、フィルムだったため、撮影した写真を大会ごと、試合ごとにファイリングしていきます。また、誌面で使用した写真を1号ごとにまとめて、再利用するときにすぐにわかるようにしておくことも大事な仕事でした。そして新聞のスクラップもあの時代ならではの仕事。現在はインターネットで検索すればすぐにニュースがでてきますが、当時はそれができなか

1996年からの私〜第6回(99年)まさかの帰還命令…そして週プロへ

やる前から拒否していたら何もできない「格闘技通信」編集部で次々とチャンスをもらい、編集・記者の仕事にも日に日に慣れていきました。このときは大学にも週にひとコマだけ通っていて、99年に無事に卒業。1年越しでベースボール・マガジン社(BBM)に入社することになります。当時のBBMは入社から1年は嘱託社員で、その後正社員になるというシステムがあり、私も例に倣いまずは嘱託社員として入社しました。 入社の際、格通や週プロが属する第二編集部の部長でもあった週プロの濱部編集長から、「入社

1996年からの私〜第7回(00年)人生を変えた高山善廣の言葉

うまくいかないとき、人に原因を求めないミレニアムなんちゃらとみんなが浮かれていた2000年。年が明けても私は相変わらず低空飛行を続けていました。さらに追い討ちをかけるように3月末には、人事部長から嘱託社員の継続を告げられます。1年で正社員になれると聞いていたのに話が違う。そもそも人事部長が替わっていたので、そんな話はしてないと言われて終わり。いろんなことがなかなかうまくいかず、完全に腐りかけていました。 そんなとき、週プロで「21世紀の21人」という企画をやることになりまし

1996年からの私〜第8回(01年)退社か? 残留か? 会社の奴隷にならない選択

タダ働き3年。もう1年続けるか高山選手への取材をきっかけにした意識改革、そしてNOAHの旗揚げにより、少しずつチャンスが増えていき、自信もついてきたなかで2001年を迎えました。 3月、前年と同じように会社からは当然のように嘱託社員継続の打診がきます。またしても人事部長が前年と替わっていたため、過去の話はリセットされています。当時のBBMの正社員と嘱託社員の大きな違いは退職金の有無と、休日出勤手当の有無。出張の際の手当も嘱託社員にはなかった気がします。週刊誌で働いていれば嫌

1996年からの私〜第9回(01~02年)編集長初体験。耳の不自由な方からの手紙

編集長体験で得た充実感ベースボール・マガジン社の正社員となり、さらなるステップアップを目指す私に大きなチャンスがめぐってきます。競技を問わず、注目選手をクローズアップする「スポーツアルバム」シリーズというMOOKが発足。その中でNOAH旗揚げ後、一気にプロレス界のキーマンとなってきた秋山準選手のアルバムをつくることになりました。 NOAHの担当は佐藤景さんでしたが、秋山選手の取材は主に私が担当していました。当時の秋山選手は大黒柱の小橋選手が欠場するなか、NOAHのトップに立

1996年からの私〜第10回(02年)偉そうにしない。虚勢を張らない。

三沢さんの激励。「頼りなくなんかない」2002年になって間もなく、当時の週プロのエースで一番お世話になっていた佐藤景さんから、「俺、サッカーマガジンに異動になるから」と衝撃の告白を受けます。日韓サッカーワールドカップの開催により、サッカーマガジン編集部の強化という狙いと、本人のかねてからの希望もあって、3月いっぱいで週プロを去るというのです。 週プロは編集長の佐藤正行さんをはじめ、鈴木健さん、湯沢直哉さんなど、仕事ができる人材は他にもいましたが、揃いも揃って皆さんコミュニケ

1996年からの私〜第11回(03年)チャレンジしなければ失敗しない? やらないことが一番の失敗だ

湯水のように湧き出る企画案インターネットが発展してきた2000年以降、雑誌の売り上げは右肩下がり。週プロも苦戦が続くようになっていました。そんななか2003年になってすぐ、佐藤正行編集長から大役を任されます。「佐久間に任せるから面白い企画を頼む」と中カラーの特集化にGOが出ました。第7回で書いたように、中カラーの特集化を最初に提案したのは、2000年のことでした。このときはまったくノーチャンスでしたが、その後、全日本プロレスのチャンピオン・カーニバル特集、夏のプロレス特集、闘

1996年からの私〜第12回(04年)NOAH増刊号の光と影〔前編〕

試合リポートに特集にとフル回転し、絶好調だった私は4月人事で編集次長に昇進しました。3年前には正社員になれず退社の話をしていたことを思うと(第8回参照)、何か一つのきっかけで事態が大きく変わることを実感できます。このとき、同時に編集長が佐藤正行さんから、私が格通に在籍した時代の編集長でもあった本多誠さんに代わりました。 この年の夏、NOAHが初めての東京ドーム大会を開催。本多編集長と協議した結果、NOAHでは二度目となる増刊号を出すことになりました。本誌の取材と並行して制作

1996年からの私〜第13回(04年)NOAH増刊号の光と影〔後編〕

誤算続きだった試合当日前回は増刊号を売るために私がおこなった仕掛けを紹介しました。今回は試合当日のこと、そして後日談を紹介していきましょう。NOAH7・10東京ドーム大会のメインは小橋建太vs秋山準のGHC戦。他にも三沢光晴と武藤敬司の初遭遇、獣神サンダー・ライガーvs金丸義信、丸KENタッグに杉浦貴とケンドー・カシンのコンビが挑むジュニアタッグ戦などがラインナップされていました。 私はメインの小橋vs秋山戦を担当。ここに至るまでに二人をたっぷり取材してきたので、渾身のリポ

1996年からの私〜第14回(02〜06年)闘龍門とDRAGON GATE①ウルティモ校長の奇策

一緒に上を目指す良き仲間たち前回までは担当団体NOAHにまつわる話を書いてきましたが、同じく2002年から担当となった闘龍門(DRAGON GATE)は、一緒に成長してきたという思いが強い団体です。 担当になった当時の私は26歳で、担当団体を持つ週プロスタッフの中では最年少(サポート係の若手は現在主力の市川記者などがいました)。どこの団体に取材に行っても圧倒的にベテランが多いなか、闘龍門は同世代、年下の選手ばかりで、一緒に上を目指す仲間という意識が強くありました。 ご存知