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1996年からの私〜第10回(02年)偉そうにしない。虚勢を張らない。

三沢さんの激励。「頼りなくなんかない」

2002年になって間もなく、当時の週プロのエースで一番お世話になっていた佐藤景さんから、「俺、サッカーマガジンに異動になるから」と衝撃の告白を受けます。日韓サッカーワールドカップの開催により、サッカーマガジン編集部の強化という狙いと、本人のかねてからの希望もあって、3月いっぱいで週プロを去るというのです。

週プロは編集長の佐藤正行さんをはじめ、鈴木健さん、湯沢直哉さんなど、仕事ができる人材は他にもいましたが、揃いも揃って皆さんコミュニケーションが苦手。社交性という部分でプロレス業界とのパイプ役になれる景さんは、次期編集長候補だと思っていたので、これは大変なことになるなと危機感を募らせていました。

「NOAHと闘龍門の担当は引き継いでもらいたい。(編集局次長の)濱部さんが異動を認めてくれたのは、俺が前から希望してたのもあるけど、佐久間が育ってきたから週プロは大丈夫ってことなんだよ。だから、担当団体だけじゃなくて編集長のサポートもよろしく」

景さんは私が不安にならないように軽いノリで「佐久間がいれば週プロは大丈夫だよ」と繰り返しました。前年の秋山準アルバム、丸藤正道アルバムと本来なら景さんがやるべき案件を私が任された背景はここにもあったのかと、このとき理解しました。景さんはこの1年でも高山選手のPRIDE参戦、脇澤美穂選手の引退など、強烈なネタを引っ張ってきたり、全日本とNOAHの両団体を掛け持ちで回したり、大黒柱として活躍していました。果たして自分に同じことができるのか? 不安は拭えませんでした。

3月になり景さんの異動が公になったとき、NOAHの取材時に三沢さんに新たな担当になることを告げました。

「4月から正式にNOAHの担当をさせてもらいます。景さんと比べたらだいぶ頼りないかもしれないですけど、頑張りますのでよろしくお願いします」

私の言葉受けて三沢さんは、眉毛を少し上げてニヤリとした表情を見せた後、真面目な顔に戻ってこう言いました。

「頼りなくなんかないよ。頼りないなんて思ってないから。これからもよろしく」

不安いっぱいだった私にとって、この言葉は本当に大きな力になりました。差し出された右手を両手で握り返し、三沢さんが信頼してくれている、その期待には必ず応える。そんな思いを強くしました。この年の年末にはNOAHの取材でマレーシアに行き、あの有名な三沢さんがプールの滑り台で遊ぶショットを撮影します。三沢さんは本気でぶつかっていけば、必ずそれに応えてくれました。

三沢さんとの酒席での思い出

正式な担当になったことで地方取材の際には一緒に飲みに行く機会も増え、貴重な時間を過ごさせてもらいました。

三沢さんと巡業中に飲むときは、翌日が移動日で試合がないときです。その日の試合が終わって一度ホテルに戻って荷物を置いて、シャワーを浴びてからのスタートとなるため、基本的に遅い時間のスタート。始まりが遅いため、宴は朝まで続きます。店を出るときには外が明るいなんてこともしばしば。

私の場合、週半ばで急ぎの作業がないときは飲み会にスタートから参加できます。しかし、日曜日や金曜日で入稿作業があるときは、それが終わってからの参加のため、深夜0時を回ることも頻繁にありました。そんなとき、三沢さんは必ず自分の隣、もしくは目の前の席を空けていてくれました。若造の私が一番遅れて入っていくのは、なかなか気をつかうものです。後から入ってきても嫌な思いをしないようにと、自分の近くの席を用意してくれていたのです。

飲み会の席では基本的にプロレスの話はしません。漫画の話や戦隊シリーズや仮面ライダーの話、昔付き合っていた女性の話など、本当にくだらないことばかりです。私はレスリングをやっていたこともあって、三沢さんのレスリング時代の話などもよく聞きました。そのなかですごく印象に残っているのが、ZERO-ONE(当時)のリングで小川直也選手と対戦した時の話です。三沢さんが小川選手のタックルを封じた場面を週プロやゴングもフィーチャーしていましたが、レスリング的には初歩のタックル切りをしただけのこと。小川選手は柔道出身でタックルに入った後に正座足になることも指摘していて、すごく冷静に試合をしていたんだなと改めて感心したことをよく覚えています。その後、レスリングの技術とプロレスの技術についてなど、普段はしない話をしたので、信頼されているのかなと思ったものでした。

三沢さんとの飲み会はいつも賑やかで楽しいものでした。アメリカ、ヨーロッパ、韓国など海外遠征先でもご一緒させてもらう機会があり、人としての振る舞いを学ばせてもらったと思っています。三沢さんは年下やキャリアの浅い記者に対しても偉そうにしたり、横柄な態度をとったりすることは決してありませんでした。当時、舐められたくないと思って虚勢を張りがちだった私にとって、取材以外の部分で三沢さんと過ごした時間は、貴重なものだったと思っています。

NOAH、闘龍門、PRIDEと人気団体の担当となり、仕事量が激増するなかで、三沢さんから人として大切なことを学び、少しずつ成長していった私は、翌2003年についに飛躍のときを迎えるのでした。

つづく


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