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1996年からの私〜第4回(98年)デビュー前から武者修行。そして格闘技通信へ

叩き上げではなく海外武者修行

1997年11月の全日本大学選手権を最後にレスリングの世界を引退。4月の内定以来、BBMとはまったくコンタクトをとっていなかったため、内定はなかったことになっていないかと心配で、引退と同時にすぐに編集部に電話をしました。

濱部編集長とコンタクトをとると、今後についての話は年が明けてからとのこと。4月のときはすぐにでもアルバイトに来てほしいと言っていたのに雲行きが怪しい。私が授業と部活に打ち込んでいる間に、別の有望株が現れたのか…と少々不安になったことを覚えています。実際に週プロで働いてみたら、12月は選手名鑑があったり、年末進行だったり、1・4の増刊の準備があったりで、学生に構っている時間がないことはわかるのですが、このときはとくに内定の通知などもいただいてなかったため、軽いタッチの濱部さんが忘れていたのではないと本気で心配しました。

年が明けて98年。濱部さんと会ったのは2月になってから。最初のコンタクトから1年近い時が流れていました。この席で、「週刊プロレス」ではなく、「格闘技通信」で働いてほしいと伝えられました。私はBBMにとって800人に一人の逸材であり(前回参照)、何としても週刊誌の編集長に育てたい人材。そこで流れの早い週刊誌ではなく、隔週発行の格通で、まずは雑誌制作のノウハウを覚えさせたいというのが会社の意向ということでした。

濱部さんからは「3年頑張って、即戦力として週プロに戻ってきてほしい」と激励を受けました。週プロに入ってもいないので、戻るというのは不思議な表現ですが、プロレス的に言うと、国内の前座でデビューする前に海外武者修行に旅立つようなもの。新弟子からの叩き上げではなく、スーパールーキーの扱いです。

幸い、この頃の私は週プロよりも格通の方が熱心に読んでいて、まさに渡りに船の提案。ところが……詳細は割愛しますが、諸事情により、私はもう1年大学に通うことになってしまったのです。内定取り消しも覚悟したものの、結局、1年間はアルバイトとして格通で働くことになりました。

グレイシー幻想のごとく膨らむ安西幻想

私が入ることになった当時の格通には個性的なメンバーが揃っていました。編集長がのちに週プロの編集長も務めることになる本多誠さん。編集次長があの安西“グレイシー”伸一さんです。濱部さんから格通で働いてほしいと言われたときに「安西っていう変わったヤツがいるけど、悪いヤツじゃないから」と名前が出ていて、その後、本多編集長と二人で話したときにも、「安西さんはちょっと面倒くさいかもしれないけど気にしなくていい」と、ここでも名前があがっていました。二人の編集長が一目置く安西さんとは何者なのか?……グレイシー幻想のように膨らむ安西幻想。

他にも三次“チョッキ”敏之さん、朝岡秀樹さんと、のちに格通編集長を務める方も編集部員として在籍。フリーライターも布施鉱治さん、安田拡了さん、須山浩継さん、高島学さんと、スーパー個性派揃い。学生が入っていくには、なかなかハードルの高い職場環境でした。

忘れもしない最初の仕事は、成田空港へのおつかい。遠征先のオランダから帰国する野良犬・小林聡選手と会って、現地のカメラマンが撮った写真のフィルムを受け取るというもの。格通読者だった私は当然その存在は知っていて、いきなり小林聡に会えるのか!と興奮したことを覚えています。小林さんと空港で会い、格通に入った新人であることを自己紹介。その後、一緒に成田エクスプレスに乗って東京へ戻りました。

普通は入ったばかりのど新人が、すでにトップ選手の一人だった小林選手に馴れ馴れしく接することはできません。社会を知らない当時の私は、友だちと話すように世間話をしていました。小林さんはとてもいい人だったので、話を聞いてくれただけでなく、別れ際には「これから頑張って」と激励してくれて、さらにオランダのお土産までくれました。

普通のサラリーマンになりたくなかった私としては、最初の仕事は最高のスタート。人と会うために現場に行く。何かを求めて人と会う。私の原点はこのスタートにあるのかもしれません。

つづく

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