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1996年からの私〜第11回(03年)チャレンジしなければ失敗しない? やらないことが一番の失敗だ

湯水のように湧き出る企画案

インターネットが発展してきた2000年以降、雑誌の売り上げは右肩下がり。週プロも苦戦が続くようになっていました。そんななか2003年になってすぐ、佐藤正行編集長から大役を任されます。「佐久間に任せるから面白い企画を頼む」と中カラーの特集化にGOが出ました。第7回で書いたように、中カラーの特集化を最初に提案したのは、2000年のことでした。このときはまったくノーチャンスでしたが、その後、全日本プロレスのチャンピオン・カーニバル特集、夏のプロレス特集、闘龍門の冬季集中講座で、テスト的に8ページのパッケージ特集を行い、それを評価してくれた編集長から毎号の特集化にGOが出たのです。

毎週となると年間50冊分の企画が必要です。基本的にその企画を毎号一人で考えていました(実行するのは違うスタッフのときもありました)。一人で考えると言っても、うーん…と悩むわけではなく、誰かと飲んでいるときに自分の妄想を口に出すことで形にしていくというやり方です。企画のインパクトを示すトビラから、8ページをどう構成していくのか考えるのが楽しく、ネタに困った記憶はありません。

当時は若く、脳もフレッシュだったため、湯水のように企画が湧き出てきました。大会展望特集、人物クローズアップといったオーソドックスなものから、バレンタイン、プロレス技を科学するシリーズ、ちゃんこ鍋、闘撮、バーチャルデート、フレッシュ、姓名判断、サイン、ペット、凶器…と多種多様。編集長時代の「いぶし銀特集」の時は、登場する人選がいぶし銀で地味だからと、飯伏幸太選手を銀色のアルミホイルでくるんで「飯伏銀」にしてトビラにするなど、めちゃくちゃなことをしていました。

話は少し前後します。特集化のGOが出る3年前、新人の頃からこういう提案をしていた私を、大先輩の鈴木健さんは「とんでもないヤツが来たと思った」と言いました。

これはその当時の発言ではなく、昨年発売された「週プロ黄金期 熱狂とその正体」という書籍の取材で対談したときに聞いた言葉です。私はターザン山本編集長時代は一読者であり、黄金期のスタッフではありません。本来はこの本に登場するべきではないのですが、ターザンチルドレンの代表格で、その後の週プロも知る鈴木さんが、ポストターザン時代を語る上で佐久間と一緒に話したほうが面白いと出版元に提案してくれたのでした。この取材時に、鈴木さんはこう言いました。

「僕らはプロレスが好きで、週プロが好きで、ただ原稿を書ければそれで良かった。山本さん時代の記者はみんなそんな感じでした。だけど、佐久間は入ってきた時から、山本さん時代の記者とはまったく違って、最初からどうやって雑誌を面白くするかという視点を持っていた。週プロに対する考え方が自分たちとはまったく違ったのでカルチャーショックを受けました。そういう考え方についていけない僕らは居場所がなくなるんじゃないかという危機感が大きかった」

鈴木さんは山本さん時代との変化を伝えたくて、佐久間をこの本に出してほしいと提案し、こういう発言をしたのだと思います。しかし、残念ながら書籍にこの話は載りませんでした。書籍全体を読んでも編集者の方の力量不足は明らかで、大事なポイントを見抜けなかったのでしょう。

「プロレスの静止画」をつくる大パズル大会

話が逸れました。特集に頭をフル回転させながら試合リポートでもフル回転。この年は自分の中でも印象に残っている原稿をたくさん書いています。1・4ドームでの中邑真輔&小原道由vs安田忠夫&村上和成〜「ヒーローの血統書」から始まり、1・27T2Pラスト興行〜「ミラノが仮面を脱いだ日」。伝説の3・1三沢vs小橋戦。5・2ドームの小橋vs蝶野のハーフネルソン6連発。8・26NOAH名古屋での小橋vsバイソンといった絶対王者シリーズ…etc。誌面の作り方も原稿の内容も、前年より格段にレベルアップしていたと思います。

担当団体のNOAHの武道館ビッグマッチが増え、闘龍門もT2Pと合流して絶好調。新人時代から担当していたPRIDEも人気が高く、番記者を務めていた高山善廣選手の活躍もあり、とにかく注目度が高く、ページ数が多いリポートを数多く務め、一気に成長できたと思っています。

この頃には試合が終わった瞬間に頭の中では原稿が完成するようになっていました。そのため、原稿を書くスピードも早く、たくさんのページを一晩でこなせたのです。また、試合の面白さを伝えるための写真選び、写真の使い方にも徹底的にこだわっていました。使用候補写真を第一次レセクトで100〜200枚くらいまで絞り、そこから誌面に落とし込むためのパズルをします。ポジ時代はライトテーブルいっぱいに切り出した写真を広げて、デジタルになってからはサムネイルを出力してそれを切り取り、社内の廊下いっぱいに広げて、大パズル大会をします。

古くからの読者の方なら、3・1三沢vs小橋戦での三沢さんの花道タイガースープレックスの写真を覚えている方もいるでしょう。二階からの写真を見開き二枚で使ったものです。TAJIRI選手が「プロレスは静止画」と表現していますが、この場合!という印象に残る静止画を誌面に残すため、大パズル大会をしていたのです。

いい誌面を作るために労力を割くのは当たり前のこと。能力があればここまでしなくてもできる人もいるかもしれません。私は能力がなかったので、人の何倍も考えてこだわって誌面を作っていました。

人気企画「ちゃんこ鍋特集」の暴挙

特集で思い出深いのはやはり「ちゃんこ鍋特集」です。これは現在も続く冬の人気企画で、最初に提案したのは2001年のことでした。しかし、「食べ物だけで8ページなんて前例がない」という理由で2001年、2002年と連続で却下されていました。たしかに前例はないかもしれませんが、ヒットするのはわかっていたし、何よりライバル誌に先にやられたくなかったため、この年は強行手段に出ました。

編集長の許可を得ないまま、団体に企画趣旨を説明し、内緒で取材をおこなったのです。後日、12月の中カラー企画として提案し、「もうちゃんこを食べてきてしまったので載せないとまずいです」と、既成事実をもとに無理やり実現させたのでした。そのやり方は社会人として間違っています。やり方は間違っていても、企画は大成功。レスラーが普段食べているちゃんこは読者の皆さんも興味津々で、見事にヒット企画となりました。

何か新しいことをしようと提案すると、保守的な人には「前例がない」と拒絶されます。しかし、よく考えてみてください。人間は生まれたときは全員が人間初心者で、やったことがないことを繰り返しながら成長していきます。たとえば、字を覚える。たとえば箸の使い方を覚える。たとえば、自転車に乗る。たとえば、九九を覚える……。子供の頃はやったことがないことでもチャレンジするのに、大人になると失敗を恐れてチャレンジしなくなってしまうのです。チャレンジしなければ失敗はしない。そう考える人もいるのでしょう。個人的にはチャレンジしないことが一番の失敗だと思っています。だから私は初めてのことでも、難しいことでも、常にチャレンジする姿勢は持ち続けるようにしています。

2003年は海外取材もあり、国内外で大忙しの1年となりました。1年前はエースが抜けて不安でしたが、これ以上ないくらいフル回転した結果、2003年が終わる頃には「俺が週プロのエースだ」と言えるくらいの自信をつけていました。それは単なる自己満足ではなく、実際に活躍が評価されて、翌2004年に私は編集次長に昇進します。正社員になってわずか3年でのスピード出世でした。

ところが……絶好調のなかで迎えた2004年に、大きな挫折を味わうことになるのでした。

つづく  

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