1996年からの私〜第12回(04年)NOAH増刊号の光と影〔前編〕
試合リポートに特集にとフル回転し、絶好調だった私は4月人事で編集次長に昇進しました。3年前には正社員になれず退社の話をしていたことを思うと(第8回参照)、何か一つのきっかけで事態が大きく変わることを実感できます。このとき、同時に編集長が佐藤正行さんから、私が格通に在籍した時代の編集長でもあった本多誠さんに代わりました。
この年の夏、NOAHが初めての東京ドーム大会を開催。本多編集長と協議した結果、NOAHでは二度目となる増刊号を出すことになりました。本誌の取材と並行して制作できる増刊号は週プロにとってドル箱でした(会社にとってという意味。スタッフへの手当てはなし)。しかし、この頃は増刊号がまったく売れなくなっており、「出すだけムダ」という空気も社内にはありました。
武道館に毎回超満員の観客を集めていたNOAHの人気と、初のドームという注目度を考えれば今回は「増刊号=売れない」のイメージを払拭するチャンス。この機を生かすべく、試合速報の増刊号をこれまでとは違うものにすることで、売上アップをはかろうと考えました。
基本的にこの頃の増刊号は表周り込みの52ページというパターンが大半でした。一大会に50ページ割ける思うと、かなりのボリュームですが、本誌は120〜130ページくらい。比較すると、ペラペラなのです。ペラペラなのに値段はほぼ同じ。これでは売れるわけがありません。そこでまずは体裁を変えることにしました。本誌と同じ中綴じではなく、無線綴じにして背表紙をつけることで、特別感を演出したのです。
ただし無線綴じにするのにはデメリットもありました。一つは背をつくるためのページ数の条件。必ず4台(1台が16ページ。その数で雑誌はページ数を決めています)以上必要ということで、これまでの増刊号より多いページ数をつくることになります(本誌もあるので同時作業になります)。これはあまり問題視していなかったのですが、もう一つ大きな問題がありました。無線綴じの場合はのり付けが必要であり、製本のスピードを早めるため、半分の32ページは大会前日までに入稿する必要があったのです。つまり、大会に割けるページは32ページということ。ここがひとつの葛藤でした。
本誌よりもページが割ける増刊号で、普段より多いページでリポートしたい。そんな気持ちはありましたが、試合速報の増刊号が売れないことは明らかでした。残念な思いはありつつも、増刊号を売るという目的のもと、無線綴じでの発行に踏み切ります。
大会前までに32ページ入稿…これはネックではなく、まさしくこれこそが新しい増刊号の狙いでした。この32ページを使って、本誌ではできないNOAHの特集を組む。試合速報と合わせて二度美味しい一冊をつくることで、普段は本誌を買わないNOAHファンも取り込もうと思っていました。
その企画の一つは保存性のあるものにすることが、自分の中での絶対条件でした。資料性があるものなら手元に置いておきたいと考える層が一定数いることも把握していたからです。そのため、NOAH旗揚げからドームまでの個人史として、各選手の歩み年表と写真を一挙に掲載。一人ひとりの歩みを一つひとつ調べる作業ももちろん自分でやります。
他には増刊号だからこそのバラエティ企画を掲載。高山善廣選手によるNOAH戦士たちの通信簿、NOAHバス潜入、小橋vs秋山戦の全試合プレイバックなど、NOAHのファンなら試合が掲載されていなくてもほしいものにしようと企画を盛り込みました。
そしてこの時代はSNSがなかったため、「今度の増刊号はマジすごいですよ」と、そこらじゅうに口コミで発信をしました。さらに本誌の告知ページでは「永久保存版」「売切れ必至」とあおり、買っておいたほうがいいという空気をじわじわと作っていきました。
さまざまな手を尽くした結果、大会の大成功との相乗効果もあり、この増刊号は見事にほぼ完売(立ち読みでボロくなって返品されたものあり)。すべては大成功!…と思いきや、実際は一つだけ大きな失敗がありました。その失敗により、私は現場から降りることまで考えるのでした。大会当日の話と後日談は次回紹介します。
つづく
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