小川表紙

1996年からの私〜第6回(99年)まさかの帰還命令…そして週プロへ

やる前から拒否していたら何もできない

「格闘技通信」編集部で次々とチャンスをもらい、編集・記者の仕事にも日に日に慣れていきました。このときは大学にも週にひとコマだけ通っていて、99年に無事に卒業。1年越しでベースボール・マガジン社(BBM)に入社することになります。当時のBBMは入社から1年は嘱託社員で、その後正社員になるというシステムがあり、私も例に倣いまずは嘱託社員として入社しました。

入社の際、格通や週プロが属する第二編集部の部長でもあった週プロの濱部編集長から、「入社を機に週プロで働いてほしい」と思いもよらぬ打診がありました。格通で働くことになった1年前、私は「3年修行して即戦力になって戻ってこい」と送り出されています。それから1年しか経っていないし、週刊の即戦力かというと、そこまでの自信もありません。また、格通の仕事にやり甲斐を感じていたこともあって、二つ返事でイエスとは言えませんでした。

週プロはこの1年の間にエース格の市瀬英俊さんが抜け、後任を任されていて鶴田倉朗さんも退社。ベテランが相次いで抜けたこともあり、起爆剤として格通でフル回転していた若手の私を迎え入れたいということでした。期待されるのは嬉しい反面、格通でのやり甲斐以外にも、私には週プロに行きたくない理由がありました。それは当時の週プロの叩き上げシステムです。

当時、週プロと格通は同じフロアの隣り合わせであり、活気のある格通と比べて編集部員が喋っている姿を見たことがない週プロは、明らかに自分のカラーとは違うと思っていました。また、週プロのアルバイトスタッフから、「週プロルール」という暗黙の掟を聞かされていたため、絶対に嫌だ!と思っていたのです。

その週プロルールとは、勤務時間中の編集部での私語禁止。また、仕事がなくても必ず終電までいることという意味不明なものもありました。聞けば、若手は根性と忍耐力をつけるために無言で終電、場合によっては始発まで働くのだと言います。学生時代に試合のたびに10キロの減量をしていて、日本一を目指し日々過酷な練習をしてきた私としては、週刊誌の編集部で働いているだけの人に、根性やら忍耐やら言ってほしくないというのが本音。そんなものはとっくに身につけているものであり、今さらこんな無駄でアホなことをさせられるのなら、絶対に週プロには行きたくないという気持ちでした。

そして濱部さんに「雑用係だったら僕ではなくて別なバイトを雇ってください」と言いました。せっかく格通でポジションを築きつつあるのに、自分にとってマイナスになる異動は受け入れかねると正直に伝えました。濱部さんは雑用ではなく戦力として期待してるからだと言ってくれましたが、納得できずなんとなく時がすぎていきました。

格通の本多編集長に格通に残してほしいと相談し、濱部さんと協議してもらいましたが、事態は変わらず。乗り気ではない私に対して、いつもは穏やかな濱部さんが初めて強い口調でこう言いました。

「やる前から拒否してたらこの先何もできないぞ。とにかくまずはやってみろ。一生懸命やって、それでも無理だっていうなら、そのときはちゃんと考えるから、まずは週プロで頑張ってみろ」

それは流し台工場の怖いおじさんが言っていたことと同じです(第2回参照)。どんな仕事でも責任を持ってやること。まずはやってみる。物事はNOからは始まりません。初めてのこと、困難なことでも、まずはやってみる。現在に続く私の考え方は、このときから続くものです。こうして覚悟を決めた私は、99年6月から週プロ編集部で働くことになったのでした。

スーパールーキー衝撃のデビューから急降下

濱部さんとの約束通り、私は雑用係ではなく、記者として編集部に迎え入れられました。しかし、週プロ伝統の叩き上げを経験していない私を快く思っていないスタッフがいることは空気から感じていました。今でこそ他の編集部からの異動もあるものの、あの頃の週プロは純粋培養が当たり前で、現場に出るレベルに育った若者がいきなり編集部に入るというパターンは皆無でした。また、無意味に終電までいたくないので、暗黙のルールを無視してさっさと帰宅していたことも、先輩方の気を損ねていた要因でしょう。

スーパールーキーとして大きな期待をかけられていた私は、異動から1カ月で異例の抜擢を受けます。99年7月4日のPRIDE.6の取材にて、私は桜庭和志vsエベンゼール・フォンテス・ブラガ戦を担当。この日の目玉は小川直也vsゲーリー・グッドリッジ戦であり、メインは高田延彦vsマーク・ケアー戦。桜庭選手の試合は三番手の位置付けだったため、ルーキーの私でも大丈夫という采配でした。ところが、桜庭選手が素晴らしい内容で一本勝ちを収めたことにより、表紙=小川、巻頭カラー=桜庭となったのです。多くの先輩方は巻頭カラーでリポートを書くまでに長い年月を要したと聞いていたなか、異動からわずか1カ月でそこにたどり着き、そこそこの誌面作りはできたと思っています。

スーパールーキーとして華々しく週プロでの一歩を踏み出したものの、その後は低空飛行を続けることになります。当時の週プロのスタッフは、フリーも含めて仕事をしたい人だらけであり、また新入りの私は力量不足+自分から取材の希望を出すことが許されておらず、まったく力を発揮する場面が訪れなかったのです。

そんな私にとって密かな心のオアシスとなっていたのがIWAジャパン。毎回、面白い記者会見がおこなわれ、その様子をニュースコーナーにちょこっと載せるだけなのですが、これに「今週の新宿二丁目劇場」と名付けて記事を書くことを密かな楽しみにしていました。

期待外れのスーパールーキー。そんなレッテルを貼られていたことでしょう。週プロ1年目は鳴かず飛ばずの低空飛行で終わり、ミレニアムイヤーを迎えます。この年は私に飛躍のきっかけを与えてくれる1年となるのです。

つづく

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