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1996年からの私〜第14回(02〜06年)闘龍門とDRAGON GATE①ウルティモ校長の奇策

一緒に上を目指す良き仲間たち

前回までは担当団体NOAHにまつわる話を書いてきましたが、同じく2002年から担当となった闘龍門(DRAGON GATE)は、一緒に成長してきたという思いが強い団体です。

担当になった当時の私は26歳で、担当団体を持つ週プロスタッフの中では最年少(サポート係の若手は現在主力の市川記者などがいました)。どこの団体に取材に行っても圧倒的にベテランが多いなか、闘龍門は同世代、年下の選手ばかりで、一緒に上を目指す仲間という意識が強くありました。

ご存知の通り、プロレス学校として誕生した闘龍門は、日本プロレス界の二大巨頭、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の流れを汲まない団体であり、どんなに人気があって、どんなにすごい大会をやっていても、古い記者や古いファンからなかなか認められない空気がありました。だからこそ、一緒にプロレス界に風穴を開けてやろう!という思いだったのです。

担当になった2002年末には後の中カラー企画の先がけとなる、「冬季集中講座 ここで差がつく闘龍門」というぶち抜き特集を組むなど、面白さに気づかないプロレスマスコミやプロレスファンを振り向かさんと頑張ってきました。

闘龍門(DRAGON GATE)は拠点が神戸であり、国内団体最大の試合数を誇っていたため、毎週のように出張に行っていました。そして海外取材も多く、メキシコ、アメリカ各地、中国と各国で取材をしてきました。そのなかで印象深かった海外取材にまつわる出来事を紹介していきましょう。

闘龍門の原点であるメキシコに、初めて取材で訪れたのは担当になった直後の2002年5月のことでした。当時は吉野正人、ミラノコレクションA.T.らT2P勢がまだメキシコ在住で、石森太二やKagetoraがちょうどデビューするタイミング。メキシコには日本で活躍する日を夢見て練習に励む選手たちがたくさんいることが、何よりも印象に残りました。

この年から4年連続で、旗揚げ記念日の5月にメキシコ取材に行かせてもらい、現在日本で活躍する多くの闘龍門門下生のデビューを見てきました。ウルティモ・ドラゴン校長にもとても良くしてもらい、メキシコ滞在中は世界のプロレスの話をたくさん聞かせてもらいました。

闘龍門10周年でプロレスデビュー!?

そんななか、2006年のことだったと思います。この年の5月は娘の出産予定日と大会日程が重なっていたため取材を断念。後日、日本に帰国したウルティモ校長と会ったとき、「来年は10周年なのでぜひメキシコへ」というお話をいただきました。

このとき、ウルティモ校長から「佐久間さんってレスリングやってたんですか?」と突然聞かれました。担当になってすでに5年目。選手たちはみんな知っている情報を今さらという感もありましたが、その辺りがいかにも校長らしいところ。そこで経歴を話し、当時格闘技界で大活躍していた山本KID徳郁選手と3度対戦して3回とも勝っていることなどを告げると、校長はとんでもないことを言い出しました。

校長「レスリングの選手ってマット運動をやるじゃないですか? 佐久間さんもバク転とかバク宙とかやってたんですか?」
佐久間「マット運動でやってましたね。バク転は10歳のときからできました」
校長「今もできます?」
佐久間「もう何年もやってないですけど、ちょっと練習すればできると思いますけど」
校長「佐久間さん、前に子供の頃はプロレスラーになりたかったって言ってたじゃないですか。1試合だけでもいいので闘龍門の10周年でデビューしませんか? 山本KIDに勝った週プロ記者デビューって面白くないですか?」

本気なのか、冗談なのかと困惑する私を尻目に校長は言葉を続けました。

校長「レスリングの基礎があるから半年練習すればいけると思うんですよ。半年だけメキシコに来れないですか?」
佐久間「……さすがに半年も会社休んだらクビになっちゃいますよ」
校長「現地からデビューまでの道のりみたいなリポートを書けばいいんじゃないですか。これは誰にお願いすればいいんですか? 濱部さんですか?」
佐久間「娘も産まれたばかりなので、半年メキシコはさすがに無理ですよ」

ウルティモ校長は、名もなき闘龍門の若者たちに、キャラクターを植えつけ、技を伝授し、レスラーとしての振る舞いを教え、数多くのレスラーをプロレス界に輩出してきました。普通とは考えることが違います。たしかに半年メキシコで修行を積めば、ウルティモ校長ならうまくプロデュースしてくれたことでしょう。

子供の頃、プロレスラーになりたかったのは事実で、最初はそのためにレスリングを始めました。しかし、大学進学のときから目指していたのが記者、マスコミであり、その夢だった仕事をバリバリやっているなかで、生半可な気持ちでプロレスラーを目指すことはできず、丁重にお断りさせていただきました。

ウルティモ校長はサッパリした方なので、「そうですよね。では、10周年はばっちりリポートお願いしますね」とすぐに切りかえ、私も本業のほうでいい仕事をすることを約束。しかし、翌年には編集長になっていたため、闘龍門10周年のメキシコ取材には行くことができませんでした。残念!

ちなみにメキシコではアレナ・メヒコのリングサイドで写真を撮ったこともあります。その日はミスティコvsペロ・アグアヨJrという大一番で、会場は超満員。試合中、アグアヨJrが飛んできて、避けようとしたもののテレビのケーブル持ちに逃げ道を塞がれ、頭を踏まれた場面がばっちりテレビ放映されました。良き思い出。

さて、次回はDRAGON GATEの中国遠征で起こった奇跡のような出来事を紹介します。

つづく

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