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今、人はエンタメ的に介護されている

 もうファンタジーは人を夢中にしないのかもしれない。フィクションに人は心動かされないのかもしれない。どうしても私たちは今、現実を考えてしまう。それはこの世のことという意味ではない。それは「自分自身のこと」だ。

 現代人がファンタジーに没入できなくなったのは、それよりも自分のことを優先するのが当たり前になったからである。「夢中になる」という行為には「なりきり」が必要だ。その没入する何かに対して、自分という存在が一体となること。それはまさになりきることであり、「自分」をわきにどけて、新たな自分をそこに作り出すということだ。
 でも今、私たちは何事も自分優先で、それが肯定されていて、あまつさえ多くのものが「自分自身だけを楽しませるためにカスタマイズされて」いるのだ。
 従って自ら動かなくても、楽しいものは簡単に手に入ってしまう。つまりわざわざ、前のめりになって楽しもうとしなくたって、楽しみはそっちの方からやってくるのだから。

 そのために今、ファンタジーは人を夢中にできない。今、人はファンタジーに夢中になれない。没入感とは難易度の高いものになっている。なりきって楽しむことは、特別な労力が必要である。
 もちろん、そうしたいと本人が望むのなら、難しい話ではない。しかしそうではなく、何かに夢中になってほしかったり、なりきりを他人に要求したりというのはとても大変なのだ。そして私たち自身としても、それに気づかない。
 私たちはエンタメ的に介護されているのだと。
 私たちは自らの楽しむという感情さえも、もはや自ら動かそうとすることに億劫になっているのだと。

 夢中は遠い。ファンタジーはとうの昔に手繰り寄せることすらしなくて良くなった。エンタメは「私たち」を尊重してくれて、その面白さを押し付けることはしなくなった。
 それが「楽しみ方」なのだ。前のめりではなく、そうすることもあるが、前のめりにさせてくれているものを待っているだけ。本当に自ら、私たちは「楽しい」を見つけに行こうとはしなくなっている。する必要がないと思っている。

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