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事実と真実を知ろうとすること

 事実と真実は確かに異なるものだが、かといってこの世には、事実と真実だけがあるのではない。そして事実を捉えること、真実を知ることに満足するだけでは、まだ充分とは言えない。事実と真実は、常に変化し、深まり、そして逃げていき、隠されるものだ。それは意思がある(誰かの、という意味でも)ものなので、それが単なる事象やものだという認識では、全く足りない。
 ならば私達は、事実そして真実に対して、いつも、それを追いかけようとする気力と意思が必要だと思わねばならない。何が実際に起こったことで、何が正しく、そしてどうしてそうなのか。また、それらが一般にどのように捉えられていて、その理由はなぜなのか。そういったことを知らなければ、全ては充分ではなく霧の中なのだと考えねばならない。

 もちろん、常にそれらを追いかけ続けるのは、仕事でも難しい。けれど難しいと思うことそのものが、私達の足かせとなることも事実である。
 もっと簡単に、知ろうとすればいい。確かめようとすればいい。別にほとんどの場合、知はリスクを伴わない。知そのものは何も誰も拒みはしない。常に、その周囲に漂う意思こそが邪魔なのだ。知は、それによって利害関係に巻き込まれる。すると純粋な知は汚れていく。

 私達は事実も真実も、未だ知らないままだ。それはこのような利害関係によって、いつも生の形をしていないからである。知ればメリットになることから遠ざけ、デメリットになることから守っている。そういう意思が世の中に蔓延している以上、知には限界があるだろう。
 でも、諦めて立ち止まることは、私達に事実も真実も与えはしない。それは全てが、そこまで重苦しいものでも大変なものでもない。何気ない何か、せめて、自分自身のためになるな何かのために、私達はそれを知ろうとすることの意思を、動かさなければならない。

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