効率性を求める非効率性

 テクノロジーが効率性を連れてくる。離れた人とも簡単にやり取りができて、情報共有も素早く出来る。お掃除ロボットが家を綺麗にしてくれる。出先で地図アプリを使えば、最短ルートを示してくれる。その上、レンタルサイクルを使えば目的地まですぐに移動が可能だ。スケジュールも、リマインダーによって忘れていた予定をお知らせしてくれる。などなど。

 これらは私達が開発した、私達のためのツール達である。それは生活をより効率よく、従来よりも多くの物事を処理し、その利益をたくさん手に入れるためにあるものだ。
 私達は利益を追求する。お金も時間も経験も、利益である。これらが多ければ多いほど、つまり余裕があればそうするほど、私達の人生は豊かであり、他の人よりも強くて格好良くて優位に立てるのだと考えている。
 だから効率を求めるのだ。
 効率が悪ければ、1つのことしか出来ない。でもそれが改善されていくほどに、その「1つ」は「2つ」にも「10つ」にもなる……そう思える。それは素晴らしいことなのは、得られる利益の観点から明白だ。効率とは、それゆえに至上である。テクノロジーを発展させたのはそのためなのだ。それはどんどん、進めなければならない。

 誰でもそう思う。効率よく。無駄なく。しかし一方で、私達はそれによって「非効率」をきっと感じている。

 つまり「効率性」は、「非効率性」でもある。なぜかと言えば、それはとても単純な話だ。この効率性はテクノロジーによって支えられているからである。技術と進化。それらは多くの場合に新しいものであるから、人々にとって慣れるまでに時間がかかるのである。
 要するに、1つには、テクノロジーはすぐに使えるものではないことだ。その知らない仕様、独特な方法、予期せぬ結果に対して、私達は驚きと奇妙さを持って受け入れる期間がいるのである。
 そして2つには、テクノロジーは同時多発的に生まれ、そして使われることだ。あらゆるアプリ、あらゆる機器、あらゆる方法論……そういった個別のテクノロジー達は、それらを使い分けたり使いこなしたり、慣れたりする時間や労力がかかるのである。

 今の時代、ただでさえ新しいものが、毎日、同時多発的に私達にもたらされる。なんでもかんでも。それらがどんなに効率化を標榜しようとも、その入口に立つ時点で、私達はその多様性や複雑性や新奇性に迷う。そして効率化を阻害する。だから、効率を良くしようとすることは非効率を一緒に連れてくることなのである。
 人間というものの適応力がもっと高くならなければ、これは未来永劫変わらない。むしろ、私達の能力は、私達の開発に追いついていない。理想通りにはいかず、私達は自身のテクノロジーに惑わされ、効率を落とす。
 残念なことに、それが効率を求める私達の実像である。
 効率性こそが、非効率を連れてくるのだ。
 しかしだからこそ、私達の効率化は終わらない。

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