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嫌われる「綺麗事」の極意

 綺麗事というものに対する印象は良くない。それは当然そうだと思えるものであるにもかかわらず、わざわざ提言され、聞き入れたとしてもそれが実際に正しいかどうかは未知数だからだ。
 つまり綺麗事とは現実的でない。それは理想論である。

 しかし、現実を見ていない理想論はすぐさま綺麗事と言えるのかといえばそうではなく、綺麗事には1つの大きな特徴がある。

 綺麗事とは、「安全圏」から「押し付ける」ものだ。つまり綺麗事を言う人は、問題を抱えている当人ではなく、渦中の人ではない。そして綺麗事を言うというのはそればかりではなく、しっかりと他人に押し付ける行為までを含めてなのである。
 ただ正論を言うのではなく(それは参考にできることが多い)、それを自分は影響を受けない範囲から、いかに強く「〜べき」と豪速球できるか、というのが、いうなれば綺麗事の極意なのである。

 だから、綺麗事は印象が良くなくなるのである。そこに責任も、迫真性も生じるように思えないからだ。そしてそうである言葉や提言、言説は、必ずしも「綺麗事」と名前がついているわけではないし、認識されているわけでもない。
 そういう意味では、綺麗事という言葉はただのラベルに過ぎない。重要なのは、その中身が、如何に安全圏から発せられており、押し付けたいという想いが溢れているかである。それが明らかである時、そして一定の水準を超えている時、それは誰にとっても綺麗事と認識される。

 渦中におらず、いつでもそれが適応できると考えていること。だからそれは理想論なのだ。綺麗事の極意は本当にそこにある。無論、現実はいつでも現実的ではないし、時には理想を追求したっていい場合もある。でもその時と場合を勘案出来ないのが、綺麗事だ。
 なんといっても渦中にいないのだから。状況など分かるわけもない。責任など取らない。でも、それを押し付けたくて仕方がない。
 そういう「綺麗事」は、やっぱり、いい思いはされないものである。

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