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オチは期待のシーンと理解する

 物語における「オチ」とは、どのような意味と考えられるだろうか。つまり、なぜそれが「オチ」などという名前になったのか。そのことは意味がないのか、それとも言葉の中身に大いに関係があるのか。
 第1にオチは、落ちだ。フリ、ウケ、オチ。何かの始まりがあって、それが流れてきて、最後にストンと落ちていく。まるで高まっていたものが落ち着くように、とんだものが着地するように、オチとは落ちとして理解されることが第1にして基本的な意味だ。

 しかし第2に、オチとは大知である。それは、知りたいという大いなる心だ。そこまでに様々な展開が繰り広げられ、最終的にこの流れはどこへ行くのか? 多大なる興味関心を一手に引き受けるのが、まさに大きな知としてのオチである。
 つまるところ、オチとはこの期待感に応えるべき、大切なシーンなのだ。物語において他に、これほど期待される部分も、期待を引き受けていい部分もない。オチだけが、物語の流れを追いかける人々が最も気にする合流点なのだ。それまでにどのように物語が解釈されようと、ゆがもうと、王道でも邪道でも、その期待感の眼差しで見つめられるオチだけは、けして裏切らない。
 そういう大切なものが、オチだ。大知としての唯一無二の効果を持つ、期待を満足させるシーン。オチとはそうでなくてはならない。けして、くだらないものではいけない。けして、「落ちる」などというようなイメージで描かれるものではない。それは期待感だ。期待感の答えだ。物語がどのようなオチになるか、私達はいつだって知りたくて、大いに関心を寄せているのだから。

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