適切なファンタジーとはなにか

 ファンタジー。創作の中の創作。この、現実の世界を舞台にした創作物ではなく、現実とは異なる世界を生きる登場人物たちを描く創作物。世界中で人気を博し、愛されてやまない「ファンタジー」は、まさにそれがファンタジーであるからこそ求められている。
 誰が、死ぬほど複雑な事務処理を挟む魔法学園物を見たいだろうか。誰が、完璧な物理と自然法則を克服するために、何万時間も鍛錬を積むバトルものが読みたいか(実際には、そういったテーマは面白そうではあるが、蓋を開けてみると描写が長々としていたり、いちいち現実的な事情が挟まれたりしてかったるいことこの上ないだろう)。

 なんにせよ、ファンタジーは「いいんだよ、空想なんだから」で済まされるからこそ、そこに需要があるのだ。そして面白いのである。くだらない現実性など置いてきぼりにして、スピード感を持って出来事が進んでいく。そういったファンタジーが好まれている。見たいと思われている。本来は、そういうものであった。
 けれども、いつしかファンタジーは、そういう「ファンタジー」だけでは、説明しきれなさを抱え始めたこともまた、事実である。かつては「勢い」といった言葉で表現されてきた「設定の粗」は、どういうわけかもう見逃されることも、むしろ楽しまれることもなく、もっとその細部を明らかにしなければならないようになってしまった。
 つまりここに誕生したのが、「ファンタジーの適切さ」である。いかにファンタジーだとしても、そこには一定の現実味(リアリティ)がないといけないので、ファンタジー要素は適切な下限が求められるということである。

 ファンタジーは適切でないとだめなのだ。そうでなければそれは、「荒唐無稽」になってしまう。かつて、このような指摘は確かにあったものの、それはあくまで、ファンタジーとしての矛盾点だった。ファンタジーに、本当に現実味を適応するような見方は少なかった。
 なぜ、そうではなくなったのか?

 きっとそれは、私達の現実生活が充実して(それに比して、欲望と不安も増して)、ファンタジーを、ファンタジーの枠の中で楽しむ必要が無くなってしまったからかもしれない。以前、まだこの世そのものがファンタジー的な部分も多く含んでいた頃、そしてそれが少しずつしか明らかになっていなかった頃、ファンタジーは、その理由や原因や隠された真実として、空想を楽しむ装置であった。
 でも、現代において、人間は全知であると、もう私たちは信じてしまっている。この世に解明されないことはないのだと。あるいはあったとしても、既に私たちは「解明されない領域」について知っている。したがってこの世をコントロール出来るのだ、何か不思議なことがあってもそれは、必ず説明できるのだ(し、そうしてきた)という自負がある。
 それに私たちはここまでに、多くのファンタジーを生み出し、見て、また生み出してきた。そういう思考実験を既に繰り返して来たのである。

 このような種族としての自己認識が、私達の「ファンタジー」を変えた。もはやそれは、わからないものを描くという未知の世界への冒険ではない。ファンタジーは、既にわかっているこの世というものを、どのように別な解釈ができるかという思考実験に切り替わっている。
 ファンタジーはリアルと違うものではなく、「リアルの延長線上」か、あるいは「リアルのもしも」である。だからそれには、この現実を基準とした「適切さ」が求められる。私達の住むこの世界と、もはや切り離すことができないから。
 それが現代のファンタジーのリアルである。

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