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共有と拡散によって「自我」は薄くなるのか?

 物事をなんでも分かち合い、そして広めていくことは、今日び全く目新しくもない、いたって普通の行いである。どんな些細なことでもネタになるのだ。どんな思いでも誰かに伝えたくなるのだ。それが元から人間にあった欲求で、今は極端にそれが強くなったのだと言われることに、なんの疑問もない。

 しかしこのようにしてどんどんと自分の身の回りのことを共有そして拡散していくことに、首を傾げたくなる人がいることも事実である。本当にそれは正しいことなのか? 分かち合い、広げすぎることに不都合はないのか? これはどこかに罠があるのではないか? 疑り深い私達はこの共有と拡散を、ふと冷静になって見つめる。

 実際、どうだろうか。こんなにもいろいろなものが、いろいろな人に分け与えられてしまう世の中とは、正常なのだろうか。特にそうすることによって、「私」とは一体どこにいるのか、わからなくなりはしないだろうか。
 多くの情報や感情や意見の渦に巻き込まれる自我。嵐にさらされて揺れ動く自我
。はたしてそれは、これまでの歴史と全く変わりなく、私というものを保てているものなのだろうか。

 このようなひとつの疑念は正しい。きっと私達の自我は、今の時代、多くの情報に影響されて変わっていくことだろう。でもそれが全てではない。この疑念はひとつの杞憂を含んでいる。
 つまり自我とは、周囲の多くのものの影響を受けながらも、むしろ、違うものに囲まれればそうするほどに個性が際立つものなのだと。

 何かを分かち合うこと、広めること。その何かとは自分だ。自我だ。だからそれは薄くなっていく。広めるほどに、分かち合うほどに。そう思えてくる。
 けれども現実はそうではない。
 共有と拡散はむしろ、侵略であり、違いを比べて自我を引き立たせることでもあるのだ。自分こそがまさにここに立っているのだと、情報の渦の真ん中に、大嵐の地平に、目立ってそこにいる。そういう主張とでもいうべきものが、共有と拡散なのだ。

 自我はますます、この時代に輝いている。個性はますます、大切になっている
 だから恐れることはない。もしそうならば、気にしてはならない。自我とは消えてしまうものではなく、成長し、更新されていくものだ。多くのものを取り込み、際立っていくものだ。
 そう考えると、この時代の自我はむしろ、厚く厚くなっていくのだと想像できる。

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