できるのなら、押すために引きたい
きっと生きることとは守りの連続で、守りきれなかった人が死んでいくのだろう。そう思うくらいに人間はもろくて、精神的にも肉体的にも不安定極まりない。そしてそんな存在達が形作る社会や未来など、なおのこと頼りなく見えるものである。
だから、私達は守ろうとするのだ。何かを、そしてできれば何もかもを。守って守って、守りきって死ねば負けではないのだ。次がある。遺伝子という、記憶という、記録という紡がれるものを次の世代に託すのだから。
でもこの「守り」の考え方がよぎるのは、私達が遺伝子の乗り物だからである。生まれながらにして、その「次へ託されるバトン」を持って渡す使命を背負って生きる私達は、それそのものが生であることを知らず知らず刷り込まれている。
悲しい話だ。
だからこそ「引き際」をわきまえ生き方は美徳に思える。凄惨な現場、世界の混沌の中で死ななかったこと、生きながらえたこと、無理をせずに次に繋いだことは称賛される。憧れすらあるかもしれない。そのようにして生きることを強さとすら言うほどに、私達は守る線引き、引き際に魅了される。
生きるとはそれなのだろうか。でもそれは生まれた時から刻まれている私達の遺伝子だ。それこそ原初の頃から連綿と紡がれてきた遺伝子の遺志そのものだ。それは過去であり、今ではなく、未来とは言えない。でもそれを繋げていくことを今の、そして未来の命題だと考えてしまうのが、私達の性なのである。
わがままが許されるのなら、引き際は、押し際のためにありたい。なぜ私達は守るために身を引いてしまうのか。進むために生き延びるのではなかったのか。いつしかその守りそのもの、引くことそのものが素晴らしいものとされているのはどうしてなのか。
攻めたいから、守るのだ。
そして押したいから、引くのだ。
大切なのはその駆け引きと、状況判断と、結果である。ただの引き際がそうであることに、私は未だ、納得ができない。
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