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第四の壁と、偶然が偶然として描かれる意味

 「偶然だけど」「奇遇だね」「たまたまね」……こんなことを、登場人物が言い始めたら注意しなければいけない。反対に「必然」についても、物語の中の人物が話し始めたら、疑いの眼差しを向けるべきだ。その人物がどこにいるかを。つまり、その人物が物語の外にいないかを、チェックしなければならない。
 偶然だの必然だの、それは物語の中で、基本的に読み手に伝える必要のない情報だ。ついつい、登場人物はそういったことを言いたがるけれど、物語という必然が支配する特殊な世界において、それに言及することは、「人物」の能力を逸脱した超越的な言動である。
 大なり小なり、「事象」「出来事」「現象」などに対してあれこれ言う登場人物は出てきてしまうが、それができるのは、その人物がわずかでも外側から物語世界を眺めていなければできないことだ。

 私たち自身の世界についても、もちろん、偶然何かが起こることがある。現実の日々の中で、一体なんの連鎖反応が起きたのか、それとも突然降ってわいたのかわからないけれど、とにかく、私たちの世界では偶然が偶然として、その期待を裏切ることなく起こる。そしてそれが偶然なのだと、私たちは知っている。
 そしてこのことは、「物語の世界」でも見られるものだ。つまり、創作の中でも偶然は描かれていて、確かに「作者」という創造主はいるのだが、何らかの理由で、登場人物たちには偶然の出来事がふりかかる。
 そのことに違いはない。でも、私たちと物語の登場人物たちが違うのは、後者は作られた存在だと言うことだ。今、この世界に神がいるかどうかはわからないが、物語の世界にはいる。つまり、物語という創作において起こる「偶然」だの「必然」だのという出来事は、結局のところ、その神のさじ加減でしかない。そして、作者と読者は同じ世界に生きている、いわば神同士なのである。

 つまり、認識がつきまとうのだ。物語の中で起こる出来事は何ひとつ、神秘的なものはない。すべて、作者の手のひらの上である、と。

 これが現実世界ならまだ違う。いるかどうかもわからない神によって、私たちは運命に翻弄されることがままある。そしてそれが偶然か必然か、誰が決めているのかそうではないのか、何ひとつわかりはしない、予想もできない。物語とは違って。
 要は、登場人物たちが偶然や必然を認識するとき、それは作者の自作自演の最たるものなのだ。同じような話に「第四の壁」を越えるかどうかというのもあるが、そこに感じられるのはやはり、創作された人物たちが持つメタ認知への嫌悪感である。

 そのために、注意が必要なのだ。登場人物たちが何かの偶然を感じ取ったとき、それが果たして物語の中で処理できるのか?(その人物が認識できるような証拠や言動という形)が、大切なのである。
 そうでなければ、その登場人物のメタ認知は肥大化する。そしてあまりに肥大化したその認知は、観客と演者をわけている第四の壁を越えさせてしまう。そうなればその登場人物はもう、物語の中にはいられない。つまり、感情移入ができなくなる。応援もできない。かわいそうなことに。その人物は物語からは放り出されてしまうのだから。

 登場人物が、物語の中で起こる偶然性や必然性に言及するとき、それが物語そのものから離れてしまうのかを、注意してみるべきだ。そうすると、その物語そのものが、きちんと物語としての面白さを提供しようとしているのかがわかる。
 あるいはそうでなくて、物語という形、登場人物という形をとった、何か別の主張のためなのかに、いちはやく気づくことにもなる。

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