やらないよりやった方がいいという無理解を
できる人にできない人の気持はわからない。進んでいる人に戻ってしまう人の境遇はくだらない。未来を見る人に過去にこだわる人の郷愁は無駄に映る。
一般的に、人は自分勝手なものであり何に価値があって何にそうでないかはその人の経験則によって決まる。つまり価値とは独りよがりなものだ。誰か他人の価値を頭で理解できることはあっても、体で実感できることはまずない。
特に厄介なのは何かを「為す」ことと「為さない」ことの隔たりである。人は生き物であり、即ち死に抗うことが良いことだとプログラムされている。そうでなければ死ぬのだから、大抵の場合価値があるのは、何もしないことよりも何かをすることである。
だから、できないよりできる。戻るよりも進む。過去よりも未来。そういうものが「良い」とされがちである。もちろん正しい。もし、今にも死にそうな時に縮こまって何もしないでいるよりは、抗いを起こす方がわずかでも生き延びる可能性は高いから。
それゆえ、無理解は起こる。当たり前だと思ってしまうのだ。何かを為すことが当然で、為さないことは「どんな理由があろうとも」悪いことなのだと。
「やればいいじゃん」「できない理由ばっか考えてない?」「たったこれだけのことだよ?」
このような言葉は無理解である。つまるところ独りよがりだ。誰かの人生にとってそれが正解でも、他の人の人生にとってはそうとは限らない。あるいはそれが「できること」ではないかもしれない。それにもし、できることだったとしても、その時々で「やるべきこと」かもわからない。にもかかわらず人は特に、「為す」ことにおいて「為さない」ことを迫害しがちだ。
どんな理由があれ、為すべきだと。ある種の洗脳はおおよそ、人は他所の人生になんら興味を持っていないということを示している。少しでもそう思えるのであれば、為すことがどれほど複雑で、それぞれの適切なものがあるかということをわかっているはずだ。
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