芝居から「当事者」が消えてはいけない
芝居とは役者とキャラクターの融合によってなされ、それを観客に楽しんでもらうものである。芝居のやり方は本当に千差万別で語り尽くせないが、1つだけ無くしてはならないものがある。それは当事者感だ。つまり役者は、芝居においてキャラクターを演じるどころか、その生きているはずの世界に存在する1つの人格でなければならない。
なぜなら、それは芝居だからである。わざわざ何かを演じ、模し、表現し、それを観てもらおうとするのだ。わざわざその行為によって表現したいテーマや世界や出来事や人格がある。ならば芝居にかかせないのは、この現実とは離れたところにある、それらの「当事者」たる空気と言える。
皆目それが感じられないのなら、その役者は確かに現実にはいるけれども、キャラクターのいる世界にはいない。だからそこに、融合は起こらない。ゆえに楽しむことはできない。観客は普通、芝居においてそれを観に来ているのだから。
なぜ、そのキャラはそこにいて、それをして、陥り、あがき、喜怒哀楽を発露させるのか。
そのことはもちろん、「当事者」でなければ分からないはずだ。十分に、その人格そのものとして存在できていなければ、役者は完全なる当事者にはなれない。そこまでを目指す必要があるかは議論されるべきにしても、どちらにせよ、当事者でないことが観客に伝わってしまえば、その芝居は単に役者とキャラクターの共演でしかなくなる。
本当なら1人でやるべき芝居が、異なる2人によってなされる。それはあまりにもぎこちない。ちぐはぐで、無様なものである。
だから必要なのだ。当事者感が。その芝居における、役者とキャラクターの融合とは、それによってしか為されない。そのために力を尽くすことが仕事である。そして過程はどうあれ、結果として当事者になれなかったのなら、その役者のどんな演技も、悲しくも上滑りすることになる。
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