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いつも「死」を怖いと思って見ないようにする自作自演

 誰にとっても死は嫌なものだ。自分の死を自覚させられる瞬間どころか、日々のニュースで誰頭が死んだという話を聞くだけでも、残念な気持ちになる。命の「もったいなさ」を、死には感じている。なぜならそれは終わりで、そして取り返しの付かないことだからだ。
 けれども、死をそういうふうにネガティブに思い、遠ざけることによって私達は精神的に救われている。「終わり」だと思うことは、それを遠ざけることに繋がるからだ。私達はできるだけ、それに出逢わないようにして生きていきたい。そう願っている。

 ところが、死とは実際のところ身近なものである。あるいは死とは、もっと身近にあらねばならないものだ。つまりそれは「変化」である。もしくは「成長」と言える。日々、私達の身体は細胞が入れ替わり、どんどんと別のものになっているように。死を遠ざけたいと願う私達の精神もまた、どんどんと変わっていくことが自然なのである。それは、いわば死である。毎日の中での、日常的な死は、むしろ私達に変化と成長というメリットをもたらす。
 にもかかわらず、私達が強く死を怖がる時(意識にせよ無意識にせよ)、その心は変化も成長も拒む。そうすることで、後ろ向きな生き方を選択するその先には、ただ取り残され孤独に死を待つだけの個体ができあがってしまうことになるだろう。

 だから「死」は、別に終わりではないと動じないことだ。取り返しの付かないことでもない、少なくとも、精神的には。

 無論、肉体と精神の死を同列に扱うことは、完全にはできない。それらは事情が違うものである。しかし、よく見聞きする、そして私達自身が自覚的に怖がる「身体的な死」に引っ張られて、私達は精神的な死をも、「死」だと思っている。
 それは正しくない。私達は日々、死んでいるのだ。それくらいの身近なものである「死」を、ただただ印象だけで遠ざけて理解しようとしない、見方に引き入れようとしないのは、生きるのが不器用と言わざるをえない。

 いつも死んでいる私達が、今更、何に怖がることがあるだろうか。そのメイナスイメージをなぜいつも行動の基準にしてしまうのか。「死なないように」「くじかれないように」「失敗しないように」などという死を恐れることからくる気後れは、普段から身近に死んでいる本来の私達にとっては、気にする必要のない瑣末事である。
 それなのに、それをありもしない恐怖だと決めつけて見、ないようにすることで救いを得る。自ら作り出した恐怖を用いて自らを救うことの滑稽さを、私達は自覚した方がいい。

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