「差別」と「差別化」を切り離して考える必要があるのかどうか

 差別は悪いものと言われる。しかし、差別化はどうか?

 とかく「差別化」を意識してしまう私達の心は、どうしたって「自分以外」のことが気になって仕方がない。だって差別化するということは、他人と違うことをしなければならないという強迫観念を、自らに植え付けることだからだ。
 そもそも差別化を意識してしまうことは、特にビジネス的な観点からうまれたものである。要するに、差別化とは価値を生み出すことであり、その価値に対して誰かがお金を払ってくれる。だから、そういう方向で物事を考えられない人間は、お金を生み出すことはできない、と。
 お金が生活にとって必需品だからこそ、それと密接に結びついている「差別化」は、身にしみこむほどに大切なのだ。それが私達の(ビジネス的な)活動にとって必要不可欠である限り、この刷り込みはいつまでも終わることはない。

 差別化はお金のため。
 ならば私達は、お金を抜きにすればこれが必要ないと言えるだろうか。

 1度、自分の胸に手を当ててみれば分かるように、私達は実際のところ、お金とは関係なく、この差別化を意識している。ビジネス的な観点は、単にこの意識を強くさせただけにすぎない。なぜなら差別とは、そもそも、私達の生の根源だからである。今日まで私達が生き延びてきた理由だからである。そして残念なことに、未だに私達はそれ以上の、生存戦略を知らないからだ。
 差別とは、2つの意味で私達を生き延びさせる。1つには、自分が誰かよりも改善されるということ。もう1つには、自分の障害になり得る誰かを排除するということ。
 人間、というよりも知能ある生き物が根本的に差別主義者なのは、己の生命と所属するコミュニティのために、改善され、そして排除しなければならないからである。だから常に生命は、「自分以外」を監視し、隙あらば差別の心で動き出そうとする。
 たった1つの方法論。「差別」は本当に便利だ。それのおかげで何かをプラスすることも、マイナスすることもできる。これほどまでに便利でシンプルなものを、私達は未だ知らない。だから私達はいつも、差別と、そして「差別化」に舵を切ろうとする。そのための材料を集めようとする。行動する。

 要するに、言葉通り、差別化とは差別の心から生まれると言えるのだ。それは同質のものであり、他者と自分とを比べてアクションを決定するという、単純なやり方である。そこには常に、差別の心が潜んでいる。現代では、差別というと良くないものの代表である。でもそれを全くなくすことができないのは、私達がそのマイナスの部分だけを切除しようと躍起になっているからだ。
 生存のための1つの方法である「差別化」を、私達は愛してやまない。他者との競争に勝とうとし続ける限り、その根本は絶対に崩れない。もし、私達が差別を廃して、究極的に平和に暮らそうとするのならば、私達はこの「改善」をも捨て去らねばならないことになる。それを持ったまま、自分以外のものを排除しようとする「差別」を、都合よく捨て去ることは無理だ。

 生命は根源的に差別主義者である。それは、そのものは道具にすぎず、いい悪いを判断されるものではない。大切なのは、その使われ方や、使われる状況や、使われるプロセスが、本当に適切かどうかを見極めることである。
 そうできないままでは、私達は差別化と差別のダブルスタンダードの中で、混乱する。その状況は私達を良い方向へは導かない。私達は差別化が好きなのだから、ちゃんと差別についても自分自身の心を整理して考えるべきである。

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