見出し画像

自己肯定は無根拠でしかない

 己の強みを明確に言える人は少ない。それを言える人達は、誰から見ても強みがはっきりとわかる人達であり、当然にそれが証明されている。しかしそうでない人々は、他人からの評価はあったとしてもはっきりとせずバラバラで、即ち自分でも強みというものを言えなくて当然となる。

 大抵の場合はそうだから、何をもってこの世に存在する「自分」というものを肯定すればいいのか悩むことになる。肯定。つまり「それでいい」「そうだ」「問題なし」と判断することだ。
 自己肯定感はこのようにして、生まれるか迷われる。本当に自分に頷けるのか。特に大切なのは「今の自分」である。それに納得できる人はほとんどいない。日々変わりゆく内外の価値観がそうさそてくれないからだ。
 それにもかかわらず精神というのは難儀なもので、健康に人生を生きるためには自己肯定感はなくてはならない。なぜなら、「これでいい」と自分の生き方を認めないままでは、私達はいつまでも前に進むことができず、立ち止まり、下手をすれば後ろへと歩き出してすらしまうからだ。

 要するに私達は、大抵の場合、根拠も薄いまま自分を認めねばならないのだ。どうやってもどうしても教えられることはない。ただ、自分で見つけ出せという無理難題にどうにか答える他はない。自分が認めねばそれは本当の肯定に繋がらないからだ。価値観の多様化した現代ではなおのこと、それはとても厳しい。
 でも、気づくべきは結局は無根拠なのだということである。たとえ自分の強みを言語化できる人がいるとしても関係はない。その始まり、自己肯定感まずどういうふうに生まれるのかということに関して、いつどんな時に私達は自分自身に1つの納得がいくのかということでしかない。

 それはふとした瞬間である。大勢の人に拍手を受けていても、何かに合格した時も、できなかったことが練習の末にできるようになった時も。確かに外的な「認める」はわかりやすい。でもそれに自分が納得するかどうかは別の話だ。だから自己肯定とは無根拠なのである。なぜならそれは「自分」にしか感じられず、本質的に外から観測できないものだからだ。数値にも表れない。
 だとするならば、それは無根拠でいい。根拠など必要としてはならないものだろう。そうした途端に、それは自己肯定ではなくなる。単に、他者からの肯定を受け入れているだけ。

 真に自己肯定をするのならば、少なくとも第一歩は無根拠でいたい。うぬぼれでもいい。蛮勇でも。身の程知らずだとしても。
 それくらいでなければ一生、自分を認めることなどできなくなる。それは無根拠でなければ。そうして私達が自分自身を「そうだ」と思っていくことにより、私達はこの生命をもっと憂いなく過ごしていくとこができるようになる。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?