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気取れる評論家、冷色される社会

 誰でも評論家を気取れるので、世の中はつまらなくなっていく。評論家とは物事を正しく見ようとするものだが、同時にそれは、物事の種明かしをして白けさせるものでとある。それは盛り上がりとかエンタメとか楽しさとは相性が悪く、冷静でノリが悪くて心が動じないことである。
 よりによって、そんな評論家がカジュアルになってしまった現代は、評論家らしい「悪癖」が十分に発揮される大舞台となっている。別に、評論家だって人間だから、物事を楽しんだり盛り上がったり、いつでも冷静じゃないことだって普通なのだ。
 でも、カジュアルな評論家は違う。
 誰でも手軽に評論家になってしまえる現代では、インスタントがゆえに本来の評論家の良さはそんなに発揮されないばかりか、良くない部分ばかり悪目立ちしてしまう。

 気取れる気論家の質が低いのは、まさにこの部分に原因がある。その職分は本来、真実を明らかにすることにあるものの、実際のところ、求められる真実とは毎日のように目まぐるしく変わり、答えれば答えるほどにハードルは上がっていく。だからこそ私たちは最初から本物の評論家など目指さず、カジュアルに、簡単に、いたって当然に、評論家を気取り、そして悪気なく責任なく、世の中の要望に答えていく。
 結果として社会の熱は、すぐに冷め、つまらなくなっていく。

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