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耳の聴こえない両親を持つ、耳が聴こえる子供~特別じゃない家庭「コーダ」~

 こんな時だから映画館になかなか行く気分にならなかった。空気の入れ替えも10分以内毎だから安全とわかっていても。それでも公開終了直前になり、ギリギリになったけど行ってみたら客は10人ほどいた。

 大画面への没入感はやはり良い。

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 noteで交流している方の中で、難聴の方がおられる。記事をほとんど上げておられず、最近はあまり訪れないので、名前は出さない方が良いのかな。

 普段の交流は唇を読むことも多いようだから、マスク生活の今は、唇だけでなく表情も見えにくいみたい。仕事中などは周りに助けられているそうなので、それを知ってホッとする。
 コミュニケーションはもちろん「言葉」で、彼女は言葉を伝える大切さについて考え、発見もあると言う。

 そして彼女は言葉以外から受け取る情報がとても多いのだろう。人とのコミュニケーションてそこも大事。

*ネタバレあります

 タイトルの「CODA(コーダ)」は、「Children of Deaf Adults」の頭文字を取っていて、つまり耳の聴こえない両親を持つ子供。子供は耳が聴こえる場合もある。
 両親と兄は耳が聴こえないけれど、聴こえるルビーは、家族と周りの人たちをつなぐ役割をしている。高校生だけど、通訳係は幼いころからずっと。

 まず、家庭内で自分だけが聴こえているってこういう感じなんだと知った。それはひたすらに通訳の役割をする立場であるだけでなく、聴こえないからこそ無神経にも思えるくらいに、平気で立てる音にいら立ちもある。聴こえない辛さだけじゃない、聴こえる側の辛さも家庭内にはあるんだ。
 その世界で当たり前に暮らしている人たちの生活を、私は知らないんだろうな。

 家は貧しいけれど、家庭内での両親は明るいし遠慮もない。親子間で交わされる愛情は、聴こえる聴こえないを関係なく感じた。
 ただ子供時代を生き、親になってわかる。子供に家庭を背負わせるのは、子供の心にとって過酷なんだ。
 子供の間にしか生きられない子供時代を生きさせてあげてほしい。子供が人生を選ぶ自由を与えてほしい。子供の人生は、親の人生じゃないんだ。

 それをお兄さんはずっと感じていた。
 自分には聴こえなくても、妹には聴こえる生活。自分は親の仕事の後を継ぐけれど、妹にはもっと広い世界で人生を選ぶことができる。なのに両親のために生きようとする妹。妹を頼り続けたい両親。双方を見ていて歯がゆいのだろう。
 もちろんお兄さんだって、他の仕事を見つけるために頑張る道もあるだろうけれど、「チャレンジしてみたら」って周りが言うよりずっと難しいものなんじゃないかと想像している。父親の仕事をずっと手伝ってきただけに。
 それでもお兄さんは、できる範囲で新しい世界に挑もうと頑張る。耳の聴こえる人たちとも関わりながら自尊心を持って。若いからこそ湧いてくるエネルギーに向き合っていた。
 海辺で物思いにふけっていたら、ルビーとちょっと言い合いになるけど、その言葉はルビーを思う気持ちであふれる。
 あの直前、お兄さんはどんなことを思い巡らせていたのだろう。

 お父さんも娘を頼りつつ、娘の人生があるのではと考え始める。お母さんは社会に臆病で、目に見えるものばかりで判断していたけれど、ルビーに「私より勇気がある」と伝える。
 確かに娘を頼る生活の方が安心だけど、そこに縛り付けるのは違う。少しずつ皆が感じ始める。

 そして何より皆がそう思うようになったのは、ルビーの歌がどうやら圧倒的だから。
 高校の音楽の先生が、奨学金で大学に行くことを勧める。

 私は今回の映画で、この先生に思い入れが強かった。

 さすがに私も中高年の域に入ったんだと、自分を受け入れ始めた最近だからなのだろうか。
 年下の他人を思う年長者の気持ちが、以前より響くようになってきている。

 大勢の中から「この子はここが光っている」は、未熟ながら塾やインターナショナルスクールで短期間働いた若い頃でも感じたものだ。それは多分多くの人が感じるものだろう。才能を見抜くとかの見る目じゃなくて、単純にただその子に光る個性があるのだと思う。そしてそこを伸ばしたいと多少焦る。自分の接する期限があるから。その間に何とかこのくらいは伝えたいと。
 夫は職業だから慣れたものなのだろうか。夫は自分の時間を犠牲にしているなんて思ってはいない風だ。もちろん約束を破られて残念な思いをしているのは、何度も見ているけど。
 私も自分がその立場で自分を犠牲にしているとか思わなかったけど、夫を見ていて、そして子供が育つ過程で、周りの大人たちに対しては思った。息子があまりにルーズだった頃に何度か話した。アナタがそこに遅れる時に、その大人は自分の時間を使って待っていてくれているのだと。まだ意味は実感できていなかったかもしれないけど。

 学生さんの卒論だの学会発表の練習だのの時って、夫は休みだろうが夜だろうが、その子の都合に振り回される時がある。大人同士の付き合いではないから。大人になりかけの子供たちのために、夫は出かけていく。
 自分のやりたい研究関連の仕事もあるのに。自分の仕事に本腰入れたい時期でも。そしてそんな時、私も夫と過ごす時間を奪われる。「ゆっくり一緒にいられないのーん」とか言ってしまう。でも学生さんたちの気持ちを思い、理解はしている。

 息子が小さい時はできるだけ時間を工面して、家にいてくれた。早く帰り、困ったと伝えれば学生さんたちと話し合って日時を変更してくれた。何しろ頼る人のいない場所での子育てだ。預ける時にも、なんでおじいちゃんおばあちゃんを頼らないの? と、転勤で来た人たちや体が丈夫ではない私のような者には嫌味を浴びせる人も少なくない地域だった。

 でも息子が大きくなってくると、もう大丈夫でしょと遠慮なく仕事に振り回されるようになった。特に地震の後は。もはや職場と家庭の都合や問題だけではなくなったから。

 年輩の者が年下の誰かのために時間を使うって、実は大切で貴重。
 それでも年上として伝えたいものがあるからその時間と労力を使っている。伝えることの方が大事だと思っているから。

 ルビーの音楽の先生にも子供がいたようだし、時間をやりくりしている中で焦りがあっただろう。生徒のルビーが何故遅刻するのか最初は思いが及ばなかった。
 親のために犠牲になっているルビーを知って、口出しの加減が難しいのも感じただろう。この家庭はこれで何とかやっているのだから良いのかもしれない。だけど、この子の人生なのに。子供が親の人生を歩むのを見るなんて本当は辛いだろう。でもそれ以上、人の家庭に口挟めない。
 そしてずっと気にもかけてくれてもいた。

 先生との会話で印象に残ったのは、歌を歌うってどんな気持ちになるかと聞かれた場面。ルビーの手話がとても良い。
 それはハッキリと言葉にならない気持ちを表していた。ルビーにとっては手話の方がニュアンスとしてピッタリ来るだけなのかもしれない。耳の聴こえない人たちにとっては手話こそが言葉。でも手話のわからない私にとってそのシーンは言葉より雄弁で、より伝わった。

 親として子供に言葉を尽くしたいと常々思っているし、夫婦の間でも大事だなと感じているけれど、やはりそれはすべてではない。互いが何を伝えたいかを感じ取る気持ち。相手の心を想像し、思いを寄せてみる気持ち。何を話すか話さないかを判断する雰囲気。言葉を言い出せない表情に込められた思い。

 それが家族でのハグのシーンにこもっていて、あったかい家族だなあと胸いっぱいになった。

 未熟に見える大人たちが、一人の子供を想い、子供は大人たちに気を遣いながら愛情と自分の人生を模索し。そうやって互いに成長していく物語。わかりやすいけど、いっぱいのメッセージが画面からあふれていた。



 最後に。ある1シーンについて。
 耳の聴こえない側の映像が流れる。無音の。ルビーが歌っているシーンだ。両親にとっては上手かどうかもわからないけれど、舞台に立っているルビーを観て、周りの人たちの様子を見ている。映画を観ている私は「歌を聴きたい」と強く思った。

 どんな歌声でどんな歌詞をどんな風に歌っているの。

 そう思った時に、両親の気持ちを初めて少しだけ感じられた。娘の歌声を聴きたい。そんな風に、きっと一番強く思っているのは両親なんだろうな。

 その後、ルビーの歌声を「感じる」お父さんの心震える表情も素晴らしかった。


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