見出し画像

なにか変われただろうか

 13年が経った。
 この13年でどのくらい復興したと言えるのだろうか。
 能登の人たちを励ませるほどにはなったのかな。



 揺れたあの時。
 カウンターの下に潜りこみ、コーヒーポットや周りの物がガチャンガチャンと横で落ちていくのが見えた。阪神大震災を思い出しながら、長い揺れに手の震えが止まらなくて、携帯の番号をなかなか正確に打てなかった。
 心細くてアパートの扉を開けると駐車場から声が聞こえて、私も下りて行った。皆で言葉を交わしながら時折、「あっまた……」と静かに立ちつくし、電線が揺れるのを見上げる。
 息子はその日は青ざめた顔で、晩御飯も食べずに眠った。

 それから一週間しないうちに、私たちは宝塚の両親の住む家に避難した。
 ハラハラしながらガソリンを補充するのに並び、日本海側に着き、新潟と富山は長かった。風が強くて列車が何度も止まったものだから。金沢に着くと、もう深夜だった。猛吹雪の中、普段ならグズグズ言う息子が口を結んで頑張ってホテルまで歩いてくれた。
 ごめんね息子。もっと甘えてもらえたら良かったのに、あの頃の母さんは、「お母さん」がまったくちゃんとできなかった。
 夫は避難することに賛成ではなかったけど、私の気持ちを案じて私と息子を宝塚まで連れて行ってくれた。
 宝塚で私たちは話し合い、夫は仕事のために戻った。
 物流が機能するめどが経ったのがそれから10日くらい。ある程度は安全に暮らしていけると理解し、私たち親子も戻った。

 あれから続いている友達は何人かいる。うまくいかなくなった人もいる。地震のせいみたいに思いそうになるけど、きっと地震がなくてもうまくいかなかったのだろう。だけどきっかけを作られたとも思う。
 皆で助け合う気持ちはあったはずなのに、いつの間にか気持ちが分断された。その中で続いた人が確かに本当の友達だけどさ。わかっているけど。あんな思いをしながら互いをけん制しながら放射能についての考えや、それを基準に自分の暮らしや人の暮らしを話すなんて、やっぱりいやだ。

 当時、廃炉にするのに30年くらいかかると言われたけど、「僕たちが生きている間に終わるのかな」と夫が案じていたように、13年経っても「あと30年くらい」と言われている。
 海洋放出の問題もある。「じゃあどうするの」「仕方がない」「大丈夫なのでは」の迷いも含めて、反対している漁業関係者もわかっているだろう。彼らが一番気にしているのは、自分たちや周りの人たちへの気持ちのフォローじゃないだろうか。心配や不安のために納得していない人たちがいる。そんな周りへの説明を、おろそかにしたまま決行することに、反対しているのではないだろうか。
 そうだとしたら、人の本質も立場が上の人たちの本質も、13年前と変わっていない。
 新型コロナのことが世界中を駆けめぐった時も。そこから発生する分断。
 科学的なこと、頭で理解することとは別に、人にはわいてくる不安がある。だってこの先を考えてしまうもの。
 最近の経済状況もそうでしょ。株がどんなに上がったって、懐に影響ない者には何の喜びもない。暮らしの分断はやはり不安となり、心の分断へ。

 この先ができるだけ希望あるものであってほしいから、私たちは今を頑張れるはず。

 なのに今は仕方なく、与えられた環境の中で、よくわからないまま不安なままで頑張り続けている。

 もっと希望ある未来にならないだろうか。私たちが希望ある未来にするのだ。と、どうにか歩いているはずが、元の場所から大して進んでいなくて時々立ちつくしてしまう。




読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。