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感性を拡張する:評価軸の後天的獲得

私は理系タイプであり、昔から理屈に沿って合理的に物事を考える事が中心でした。このため、感性で物事を捉えることはあまり得意でないと自覚しています。

そうは言っても、美しいもの、美味しいもの、心地よいものを感じることはできます。ただ、多くの人や感受性の強い人が高く評価しているものの中に、私にはその良さが感じられないものが、少なくありません。

しかし、その原因が感性の能力の低さによるものとは限らないと、ある時期に気がついたのです。価値を感じるか、あるいは価値を理解できるかは、価値を測る評価軸の有無も大きく影響しているのです。

感性というと、ほとんど天性のものや、子供の頃に獲得する能力のように感じられ、ある一定の年齢になると、もう鍛えることが困難になるような印象があります。

しかし、評価軸が欠落していたり、ぼやけている事が問題なのであれば、希望があります。評価軸に気がついたり、明瞭にしたりすることさえできれば良いためです。

価値観の多様化や、自分たちとは異なる文化への理解が重要になっている現代社会において、価値観というものの性質を理解することは、とても意義があると思います。その意味でも、評価軸と価値の関係を理解することの意味は大きいと考えています。

実際、私の場合、大人になってから評価軸を獲得して、その良さが理解できるようになった物事が、たくさんあります。

この記事では、私の体験談を通して、評価軸の獲得と価値の理解の関係を説明します。また、評価軸を獲得する方法について考察します。

■体験談1:桜

日本人は桜の花が好きです。春になると、街の所々にある桜並木や公園に、淡い色の花がぱっと咲き、油断していると数日のうちにサッと散ってしまいます。

こうした桜は、花が咲く時には緑の葉がなく、花で埋め尽くされる点で印象的です。枯れたり朽ちたりするのでなく、美しいままスッと散る様子も、散る花が舞う様子も、日本人の心に響きます。

多くの人は、満開の時期を好みますし、桜を近くで見ようとします。それが、私には理解できませんでした。私の場合、桜は少し遠くから見たり、あるいは花びらが散っていく様を見るのが好きでした。近くで見ることや、満開の時に見ることには、あまり興味がなかったのです。

しかし、ある時、桜が描かれた日本画を見た時に、その認識がガラリと変わりました。

もう誰の作品だったか忘れてしまったのですが、まず、その日本画に描かれた桜が、とても美しかったのです。

絵画ですから、多少幻想的に描かれていたのかもしれません。実物の桜を観たときよりも、美しいと思いました。

その絵をじっと観ているうちに気がついたのは、そこに描かれていた桜の木の枝に咲いた一つ一つの桜の花が、全てこちらを向いて描かれていました。どの花も、5枚の花びらが正面に向いているのです。

現実には花は横や斜めに向くでしょうから、この絵から感じる強い美しさは、このデフォルメにあるのだと、私は得心したのです。

しかし、すぐに実物の満開の桜を観る機会があり、そこで私は衝撃を受けました。満開の桜は、全ての枝の花が、5枚の花びらを私の方に向けていたのです。まさに、あの絵のように、です。

その瞬間、私は感じたのです。あぁ、満開の桜の花は、なんと美しいのだろうかと。

少し観察すると、全ての花が私の方に向いているように見える理由がわかりました。桜の花は、枝の先や途中の点から、放射状に複数の軸を伸ばすことで、鞠のような球状の塊として花を咲かせています。丸い小さなブーケのようなものです。

その球状の小さなブーケが、枝全体に無数に咲いているのです。この一つ一つのブーケが球状であるため、鑑賞する私たちの目には、どこから見ていても、それぞれのブーケが私たちの方を向いて咲いているように見えるのです。

これは他の花には見られない、桜の花の構造上の特性だと思います。あの絵は、絵を美しくするための方便としてではなく、桜の花の構造的な特徴を見事に捉える形でデフォルメをしていたのです。

そして、そのリアリティに基づいた日本画の美が、私に桜を観る新しい評価軸を与えたのだと思います。その評価軸を持ってから観た満開の桜は、私がそれまで感じることのなかった美しさを放っていたのです。

■体験談2:高級な食べ物

主に高級な食材についても、私はその美味しさが理解できないものが多くありました。

ちょっと高い割には期待外れ、という食べ物が多いのです。それなら他に安くて美味しいものはあるのだから、わざわざお金と食事の機会を無駄にすることはない、そう思ってきました。

しかし、それは半分正しく、半分間違いだったと分かるようになりました。高級な食材の場合、私がそれまで食べてきたのは、その廉価版ばかりでした。つまり、真の実力に到達していないものを食べて、私は判断していたのです。

年齢を重ねたこともあって、友人との集まりや、旅行先などで、質の良い食材を食べる機会に恵まれることがあります。そうした時に、多くの食べ物、特に私が過小評価していた食材の、真の実力に気付かされることが多々ありました。

そうやって真の実力を味わうことができた食べ物のうち、いくつかは、以前に食べたことのある廉価版でも、良さがわかるようになったものがあります。

残念ながら全てではないのですが、一部の食べ物は、本当に質が良いものを味わったことで、評価軸を獲得することができたようなのです。その評価軸を持った状態で食べると、過去にその美味しさがわからなかった廉価版にも、美味しさを感じることができるようになったのです。

■体験談3:個人の性格

私は引っ込み思案な性格だったため、あまり見知らぬ人に自分から話しかけたり、積極的に他人に関わる事が苦手でした。このため、自分は仲間や組織の中心にいたり、皆から頼られるようなタイプの人間になることはないと考えていました。

しかし、名作と言われるマンガや映画や小説などの物語に触れる中で、考えさせられた時期がありました。初めは精神的に弱かった主人公が、挫折や危機に陥った時に、他の登場人物のセリフや行動に触発されて自分の心を奮い立たせて、勇気をもって行動するという筋書きは定番です。それをエンターテイメントとして楽しむだけでなく、自分自身に置き換えてみると、多くの気づきがありました。

間違っていると思う事に流されず自分の気持ちや考えに自信を持つ事、仲間や友人や出会った人たちを信じる事、くじけそうになった時に自分を奮い立たせる事。そうした物語の中では定番の美談につながるような描写の中で、主人公たちが教えられ、考え、掴み取っているものに、私たちは心を揺さぶられます。そして、そうした考え方や、それに基づいた行動に価値があると、私は感じるようになっていきました。

こうした事には、日常生活で人と交流している時には気がつけませんでした。マンガや映画や小説などの純度が高く、高い魅力を持った物語に触れることで気がつくことができた、個人の人生や性格を左右する、評価軸と価値観なのだろうと考えています。

■評価軸の獲得

評価軸の獲得について、いくつか私自身の体験を紹介しました。

これらの体験を通して私が気がついたことは、質が高く、王道に当たるようなものに直接触れることが、評価軸の獲得には重要だという事です。

質が高いものは、その価値を理解するための評価軸に対する高い水準を持っていますので、私のように感性が鋭くなくても、分かりやすいのです。それに、質が高いものは、評価軸に無関係な余計なものが混ざっていることが少なく、純度も高いのです。これにより、無関係なノイズに惑わされることなく、評価軸上の価値だけがダイレクトに伝わってきます。

高純度で高い水準の価値に接することで、評価軸をはっきりと認識して記憶することができるのです。そして、一度、その評価軸を体得してしまえば、コツを掴んだ時のように、次からその評価軸を使って、対象の価値を感じる事が出来るようになります。

中途半端なものは、余分なものが混ざっていて惑わされてしまいますし、水準も低いため評価軸を見出すことが難しくなります。このため、評価軸を持っていない人には、その価値が分かりにくいのです。しかし、評価軸を持っていれば、多少水準が低くても評価軸に沿って価値を把握することができますし、評価軸に関係のない混ざりものに惑わされにくくなります。

■評価軸を考慮する

このように捉えると、もし、自分には理解できないと感じるものがあったなら、その物事の評価軸の獲得について考えてみた方が良いのです。自分が、その真に高品質なものに触れたことがあるかどうかを振り返ってみます。

とても高い品質と言われるものに触れたことがあってもなお、理解したり感じたりできなかったのだとしたら、諦めた方が良いのかもしれません。しかし、まだそうしたものに触れたことが無いのであれば、評価軸を獲得して理解ができる可能性が残っているかもしれません。

また、誰かに価値を理解してもらいたいと思って勧める場合には、その相手がまだ評価軸を持っていない可能性があることを考慮した方が良いかもしれません。まだ、評価軸を持っていないのであれば、価値が分かりにくい中途半端なものに最初に触れてもらうのは、考え物です。

できるなら、王道で価値が高いものを最初に紹介するべきです。例えば、友人にサッカー観戦の面白さを知ってもらって同じ趣味にしてもらいたいのであれば、日常的なリーグ戦を見てもらうよりも、ワールドカップのような頂点にある試合を見てもらう方が、好きになってもらえる可能性は高いはずです。

音楽やアートや小説などで、自分の好きな作家やアーティストを紹介するなら、最初に自分が好きな作品を紹介するのは得策ではありません。最初は、最も多くの人の心に残っているような作品の紹介からした方が良いでしょう。それで反応を見てから、自分の好きな楽曲を紹介する方が、共感を得られる可能性は高くなるに違いありません。

■文化と評価軸

同様に、全く異なる文化の人に、自分たちの大切にしている文化の価値を理解してもらうのであれば、最初に印象が強く、純度の高いものに触れてもらうのが一番です。行事のようなものであれば、日常的なものでなく最も大勢で行われたり、盛大に行われるものを選んだ方が良いでしょう。芸能的なものなら、先ほどの音楽やアートの例のように、王道で多くの人に分かりやすく共感してもらうものを選ぶ方が良いはずです。

反対の立場でも同じです。ある異文化に触れた時に、日常的でありふれた文化の一側面に触れて、その文化のレベルを推し量ったり、理解できないと切り捨てるのは、相手に対して失礼ですし、自分自身に対しても機会の損失でありもったいないことです。理解できないと思っても、評価軸の考え方を思い出し、最も純粋で高度なものに触れるまでは、判断を保留した方が得策だと思います。

例え自分の文化とは異なっていて、一見、不合理に見えるものごとであっても、その文化圏にいる多くの人が大切にしている物事には、必ず何らかの意味と、人間が共通して理解できる価値があるはずです。それを理解できないのは、文化の根本的な違いや、人の種類の違いや能力の違いではなく、評価軸が獲得できていない、ただそれだけの事かもしれないのです。

■さいごに

この記事では、評価軸と価値について、私の体験談として桜、食べ物、個人の性格についての話を紹介しました。そして、純度が高く質の良いものを体験することで評価軸を獲得できることと、対象の物事や他の文化を理解するためには評価軸の獲得について認識することが重要であるという考察を行いました。

感性の高低で価値観が決まる部分もあるのだとは思いますが、私の経験上、高い感性が無くても、かなり広範な物事に対して、私たちは後天的に評価軸を獲得して価値を理解できるようになると考えています。

感性は生まれ持っての物だから、自分には理解できない価値がたくさんあると考えてしまうと、評価軸を獲得する機会を逸してしまうかもしれません。反対に、後天的に手に入る事を知っていれば、その獲得を試みる機会を自分で作る事も可能です。

この考え方の違いは、人生を精神的に豊かにするという観点から、また、他者や他の文化との間で相互理解を高めるという観点から、とても大きな違いになります。

多くの人は、物質的な豊かさを手に入れる事には熱心だったり執着します。一方で、精神的な豊かさを手に入れることは、何か特別な事だったり、合理的ではない考え方を信奉することのように考えている人もいるように思います。

しかし、ここで挙げたように、自然や芸術であれ、食べ物であれ、性格や人間関係であれ、今まで理解できなかった価値を理解したり感じたりできるようになることが、精神的な豊かさにつながります。もっと、精神的な豊かさに対しても、貪欲になっても良いのではないでしょうか。

実際にどれくらいのものが、ここで説明したように後天的に獲得できるのかは分かりませんし、人それぞれなのかもしれませんし、対象の物事にもよるのでしょう。しかし、そうした後天的に獲得できる可能性がある事を、しっかりと心に留めておくことが、大切だと思っています。

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