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かつて踏みにじった花に気づける日が来ますように。【うつと生きる】

春を予感するような、暖かい日差しが入り込む優しい朝。
相反する様に、私は内側で暴れている、うつと格闘していた。

最近、ワクワクすることがあった。でもその後に、鉛みたいに体も心も沈んだ。ワクワクも何もない平坦な日は、ひたすら凪いでいて、それはそれで時を無駄にしているようで、不安が拭えない。

あーあ、治ったと思ったのに。
眩しい朝日に目を閉じてそう心の中で呟く私に、内側から、うつは言う。

〝治りはしないと、何度も言っているのに君は学ばないね〟

そうだね、私はまた、願ってしまっていたようだね。
生きる意味に満ちた薔薇色の毎日を送る、強い人間でありたいと。


1. いくつになっても弱いままだ


何度も何度も、言い訳がましいけれど、私は大人になれば、生きる苦しみは減るものだと思っていた。子どもの頃の私は、明日が来るのがただ嫌で、いつかそんな日が来ない年齢というものがあるのだと信じていた。

実際に大人になってみると、大人は明日が来るのが嫌なわけじゃなくて、明日が来続けることにひどくうんざりするものだと思った。明日だけじゃなく、明後日も、明々後日も頑張らなきゃいけないことを知ってしまった。そんな毎日がこれからも続く。考えただけで嫌になる。

明日の私がどうか、頑張れますように。明後日の私が、疲れ切って、愛する人を傷つけない私でありますように。

大人になっても、結局私は毎晩、神様にそう願いながら眠ることしかできない。

こんなの、明日はいじめられませんように、と願っていた子供の頃と何にも変わらない。
歳を重ねれば苦しみから解き放たれるなんて、やっぱり幻想なんだと、夜に目を閉じる度に思い知るのだ。

大人になっても、私は、未来に怯えながら生きる、ひとりの弱い人間だ。それを、まだ認められない。



2. 生きることに意味を求めて地獄を見た


人は皆、生まれた瞬間に、死に向かって生きている。ならば生きる意味は?

そんな問いが、過去、哲学科のゼミで議論になった。私は、結論が決められているのは悔しいので、せめて、それ以外は私の好きに描いて終わらせたいと言った。

だって悔しいじゃないか。生まれて、君は死ぬんだよ、なんて言われても。死ぬとわかってても、私は生まれたんだから。

唯一、神様なのか、世界の摂理なのか、わけのわからない大きな流れに逆らう方法があるとすれば、私が無意味に感じるこの世界から、意味をもぎ取ってやることくらいしかない。

せいぜい幸せに生きてやるよ、とその日から、私は神様に啖呵を切った。そして、その日から、私は間違えていたんだ。意味があることが幸せなんだって。

意味があることばかりした。成果を出す、役に立つ、人を喜ばせる。

終わりが決まった人生でも、カスタマイズがある程度可能ならば、いくらだって改変して、薔薇色にしてやると決めたのに、等価交換のように苦しみは深くなる一方だった。

そりゃそうだ、意味の用意されていない世界から意味を感じ取ろうとするなんて、大変に決まっている。苦しみ続け、気がついた頃にはもう、私は、うつとともに生きる未来が決定していた。

私は神様に白旗をあげた。



3. 元どおりになるとは、また苦しむことだ


会社をやめ、もう生きる意味とか考えずに、ただ生きていることに感謝をして日々をすごしたい。

そう思えた日から、私は何かから解き放たれた気持ちになった。それは、うつとともに生きると決意した日にもなった。

そこからしばらくは、平穏で、優しい毎日が続いた。うつも大人しくしていて、私は幸せという光明が見えた気すらしていた。

そして私は、愚かな私は、また欲に目が眩んだんだろう。ある日を境に、またうつがひどかった頃のような感情の起伏、鉛のように重たい体に戻ってしまった。うつが、暴れ出した。

〝治りはしないと、何度も言っているのに君は学ばないね〟

暴れるうつに気づかされた。私、自分を治そうとしていた。少し元気になったから、このまま、元どおりの私になりたいと、願うようになっていたんだ。

私はうつとともに生きると決意したはずだった。なのに、私は何も学んじゃいないし、諦めても、腹をくくれてもいなかった。うつはそんな私をお見通しだ。

〝そもそも治りはしないよ、君は今の君が、君なんだ〟

そうやって、うつは私が苦しい道を選ぼうとするのをいつだって、防いでくれている。元通りになんかならなくていいと諭すように。

〝それとも、極楽浄土を目指していた以前の君の方が幸せ?〟

そう問われても私は首を横にふる。

またあの世界に飛び込むなんて嫌だと、鉛のような体を引きずって、私は心底思った。強いふりをして生きるなんて、もう私は、したくないんだ。


4. 生きることはまったく当たり前じゃない


生きることはまったく当たり前ではなく、幸せに生きることなんてさらに当たり前なんかじゃない。毎日が満たされて、幸せであることなんかあり得ない。

以前の私はそれを知らぬ世間知らずだった。

例えるなら、私は毎日が幸せじゃなきゃ嫌だ、意味を見いだせなきゃ嫌だ、極楽浄土じゃなきゃ嫌だ、と駄々をこねていた。

足元に咲いた小さな花という、些細な幸せを踏みつけるように無視して、もっと、もっと、幸せになりたいと、一面の花畑を探して必死に走った。

けれど、花畑にはたどり着けなかった。この世に、そんなものは存在しなかった。私が経験したのは、そんなありきたりな物語だ。

うつが暴れて苦しい時、私は諦めたはずの、かつて思い描いた極楽浄土の花畑を思い出し、そちらに向かって走り出そうとしていたんだろう。自分は強い人間だと思い込み、生きていることには、意味があるんだって、花畑はあるんだって、思おうとしたんだろう。

生きていることが当たり前ではないこと、幸せに生きるなんてさらに当たり前なんかじゃないこと。傲慢にも私はそれらをすぐに忘れる。うつは、そんな傲慢な私を叱るように現れて、私に思い知らせてくれる。

意味に溢れた極楽浄土の世界を目指すなんかより、日々を生きて、毎日小さな幸せを感じることのほうが、よっぽど難しいことなんだと。

毎日をちゃんと生きて、毎日、小さな幸せに気づける人間になりたい。
かつて気が付かずに踏みつけてしまった、一輪の花を大事にできるような人間になりたい。

決して派手な花じゃなくていい。春に自由に咲く野草でいい。摘んでしまうのはもったいないから、そのまま地に根を伸ばし、強く、咲いていてほしい。

前の私は、豪奢な花畑じゃなきゃ嫌だ、と拗ねていたかもしれないけれど、そういう幸せが、きっと今の私が求めている幸せだ。

ごめんね、知らせてくれてありがとう。そう唱えながら、私は暖かい寝床の中で、うつを抱きしめるように、また眠りについた。

春はきっともうすぐそこ。



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