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御伽怪談第一集・第八話「小判猫の報恩」

  一

 文化十三年(1816)の春、ネコがその恩を報おうとして打ち殺され、回向院に碑を建てられたことがあった。江戸市中でも噂になったと言う。
 両替町の時田喜三郎宅の飼いネコで、名を〈キジ〉と申すキジネコであった。キジネコとは、茶色地に黒い虎縞模様のキジのような体毛のネコのことである。
 飼い主は武士の身分であった。時田氏が両替町に住んでいたからと言って両替商人などではない。商人なら、商人らしい屋号を持っていることだろう。この町で名字を名乗ることが出来るのは、銀座を管理する勘定方のサムライだけであった。
 時田氏は殊の外、キジを可愛いがっていた。近所のネコ好きの者のことも心良く思っていて、身分違いの者とも親しく交流があった。時田氏が普通のサムライなら、身分の上下にこだわって、他の者と親しくすることなどありえないだろう。だが、さばけた性格も幸いして、身分の垣根を越えていたのである。

 時田家屋敷の近くに日本橋の魚河岸うおがしがあった。ここは、お江戸日本橋……の唄で有名な、江戸からの旅の起点となる日本橋である。
 魚河岸は、日に千両の取り引きがあると言われるほど繁盛していた。特に旦那衆には金持ちが多く、江戸歌舞伎の谷町として知られていた。
 漁師が平田船で川から乗り付け、魚の取り引きを行っていた。たくさんの平田船がひしめき、魚を取り引きする声は賑わって、晴れた日には富士山が見えた。

 さて、この魚河岸に、魚屋の利兵衛が女房とふたり、慎ましく暮らしていた。彼は時田家に以前から出入りし、ネコ好きとして親しくキジを愛でていた。店では魚を取り引きする関係からネコは飼えなかった。また、女房のお初はネコが苦手であった。それで時田氏のネコを愛でていたのである。
 当時の魚屋は〈半台〉と呼ばれる浅い桶に魚を乗せ、天秤棒で担いで売り歩いていた。この半台は江戸のみで上方かみがたにはなかった。彼ら魚屋は、威勢良く売り声をあげ往来を行き来していた。
——アジ、アジッ。トンピョン。スズキ、スズキッ。スズキにタイッ。カツオ、カツオ、カツオゥ。
 トンピョンとは飛び魚のことである。この売り声は、魚が跳ねる口真似も兼ねていた。江戸湾にはたくさん飛び魚が群れをなしていたのである。
 魚屋の出立いでたちと言えは、ねじり鉢巻、片肌脱いで、黒い腹掛け、首からお守りを下げいた。
 同じ魚屋でも上方は服装が違っていた。黒い前掛け姿で、半台の代わりに魚を入れた籠を担ぎ売り歩いていた。
 利兵衛は、仕事帰りに余った魚をキジに与えていた。いつでも彼が来る時は、キジがまず出迎え、魚肉をねだって寄り添っていた。

 ある時、一ト月ほど利兵衛が病で寝込んだことがあった。なにぶん小商こあきない故、貯えもなくて難儀していた。病に伏すと、もちろん収入などない。雇われている訳でもなく何の保証もなかった。入る銭はなく、薬だ医者だと言って出て行くものばかりである。
 昼間、寝ていると、つい夜中に目が覚める。背中の痛みに耐えかねて女房の寝顔に目をやると、月影の中に涙が光っていた。
 その時、利兵衛は思った。
——このまま死んだら、いったい?
 治ったとしても無一文の人生が重くのしかかった。


   ニ

 治っても、こう体が弱っては、しばらく働けもしないだろう。その間、どうやって生活すると言うのだ。利兵衛はあれこれ考えて深くため息をついた。眠れないまま朝になる。さすがに魚河岸の朝は賑やかであった。仲間の魚を取り引きする声。売り声など、外から微かに聞こえてくると心が焦った。
 女房のお初は、そんな利兵衛を見るにつけ、
「治ってから考えたら良いことだから、お前さんは心配しないでおし」
 と励ましていた。明るい女房ではあったが、夫を医者にも診せることも出来ず、彼女自身も悩んでいた。
 江戸は人口が多いとは言え、医者は少なかった。医療は一部の金持ちやサムライのためのものである。貧しい魚売りが病に伏したからと言って、治療が受けられるとは限らなかった。
 実際、江戸の暮らしは過酷である。丈夫だからこそ糧を得ることが出来た。ひとたび、病に伏すと、もちろん日銭は入らない。ただ借金が増えてゆくだけの日々となるのだ。
 そんなある日のこと、誰とも知らず金二両が店の前に置かれていた。かね出所でどころは分からなかった。
 利兵衛は、
——この金があれば……。
 と思ったが、誰とも知らぬ金子きんすである。そんな物に手を出せば……利兵衛は悩みに悩んだ。だが背に腹は変えられぬ。せっかくの金子である。思いきって医者に体を見せ回復したと言う。
——後で訪ね歩いて返せば良い。
 その時は仏にすがるような気持ちで、つい手を出してしまった。

 病が治ると初鰹の季節。普段は薄利多売の魚屋も、この時ばかりは大きく儲けることが出来た。江戸っ子は初鰹を好み、金持ちたちが競って高値をつけた。元手さえあれば儲けるチャンスであった。しかし、利兵衛はすでに元手を失い、何も仕入れることは出来なかった。
 彼は考えた。
——恥を忍んで時田様に借金を……。
 思い立ったは良いが、そんなことは、なかなか言い出せるものでもない。恥は死にも値する物事である。
 当時、
——もし、借金を返せなければ恥をかいても仕方ありません。
 と書かれた証文が、立派に効力を発揮した。
 恥をかくことは、世間に顔向け出来ないことであり、必要以上に怖れられ、嫌われていた。
 世間様に顔向け出来るか否かが、この時代の行動原理となっていた。堂々と胸を張り、顔向け出来る物事は好まれた。しかし、そうではない物事は、ひたすら嫌われ、出来る限り避けられた。そのため、大きな犯罪は少なく、軽い犯罪は皆無に等しかった。
 利兵衛は悩みに悩んだ末、とうとう恥を忍ぶ覚悟をした。翌日、重たい体を引きづりながら時田様のお屋敷に赴いて、肩で息をしながら門番に願い義を伝えた。門番も顔見知り故、心良く主人の元へ通された。
 利兵衛は裏口から入る時、キジが出て来ないことを不審に思い、首を傾げた。その時、ネコは薄情な生き物との言葉を思い出し、
——しばらく餌をやらないので出てこないのか?
 と思ったそうである。


   三

 利兵衛は奥座敷の時田氏の前に通されると、震えながら平伏した。たかだか借金の申し込みにわざわざ奥座敷に案内されたのである。恐縮して体が固くなっていた。
 時田氏の方は、単にネコ好きで、親しくしていた利兵衛を心良く迎えたに過ぎなかった。氏に取っては身分の上下よりも親しさの方が、もちろん優先していた。
 利兵衛は少し裏返った声で挨拶した。
「ほ、本日はこのような奥座敷にまで通されて、恐悦至極にごぜえます」
 時田氏は笑って申した。
「頭をあげよ。まぁ、固い話はよせ」
 利兵衛が頭をあげると、時田氏は満面の笑顔で見つめた。そして、
「久々に元気な顔を見れて、予も嬉しく思うぞ」
「ありがとうごぜぇやす」
 お礼を述べる利兵衛に、時田氏が病気の時の様子を尋ねた。
「少し痩せたようだが、病はいかがであったかな?」
 利兵衛は頭をかきながら申した。
「もう、すっかり治りまして……」
「たいへんであったであろう。難儀はせなんだか?」
「へぇ、何とかかんとか、やって来れやした」
「女房殿も元気であるか?」
「へぇ、おかげさまで……」
 その時、利兵衛は、
——女房のことまで心配してくれて、ありがたいものだ。
 と思った。だが、胸が少し熱くなりながらも、利兵衛は首を傾げていた。
「はて、今日はキジがおらぬようで、どこかへ行ってごぜぇやすか?」
 すると、時田氏が悲しげな顔をし、ポツンと申された。
「当家のネコは……打ち殺してござる」
「えっ?」
 利兵衛が驚くと、時田氏が着物の襟を糺し、その訳を語った。
「先立って、屋敷で金子がなくなったことがござった」
「えっ?」
 驚く利兵衛を尻目に説明を続けた。
「どこを探しても分からなかった。当初、屋敷の者がくすねたか、さもなくは盗人ぬすびとの仕業かと推測した」
「金額は、いくらで?」
「二両に過ぎぬが、これは盗人にしては金額が少なく、屋敷には手癖の悪い者もおらぬなど、何故、なくなったのか不思議でならなかった」
 利兵衛は驚いて聞き返した。
「二両……」
「その後のことである。当家のネコが、金をくわえ逃げ出したのを、家中の者が見つけ申した」
「キジが……」
「あぁ、そのキジが二両もの金子をくわえて逃げ出したのじゃ」
 利兵衛の頭の中で、二両の言葉が繰り返された。
「いったい、どこへ行ったものであろう?」
 利兵衛は心の中で、自分が使った二両のことを考えた。背筋の凍る思いがした。
 時田氏はうつむいて、
「その後、二度ほど、そんなことがござって、両方とも金子は取り戻したが……」
 と申した時、驚く利兵衛の顔を見た。何やら冷や汗の利兵衛の姿に、
——ネコの盗みを驚いたのだろう。
 と単に思ったと言う。時田氏の話は続いた。
「先の紛失した二両もネコの仕業であろうと、家の者が寄り集って打ち殺してござる……」


   四

 十両盗めば人でも首がぶ。死罪をまぬかれない時代であった。ましてやネコのこと、二両を盗み、さらに二両を盗みかけたのだから、十分、死罪に値した。
 ネコに小判と……価値を知らぬものの例えにあるが、本当に盗むとは、殺されても仕方なかった。利兵衛もそれは承知のこと。だが、突然、ボトボトと大粒の涙をこぼした。
 やがて鼻をすすりながら口を開くと、
「その二両の金子は……以前、手前どもの店の前に置かれておりやした」
 店に置かれていた二両の経緯を説明し、
「手前どもでも不思議に思っておりやした」
 金の包み紙を出して見せた。
 時田氏は書かれた文字を見て、
「確かにこの家の物。しからばその後に金子をくわえたのも、商いの元手をやらんとのネコの志にて、日頃、魚肉を与えられたことに対する報恩であったか?」
 と自らの膝を打って驚いた。それから呆れた顔をして、
「さてさて、知らぬこととは存じながら、あっぱれなネコに不便ふびんなことをいたしたものよ」
 深く嘆き悲しんだ。
 利兵衛は借金の申し込みに来たのに、前に使った二両の持ち主まで分かってしまい困惑した。先の二両を返すには、また、借りなければならないのである。
 時田氏は、
「先の二両は、病気見舞いとして、そなたに与えよう」
 と申し、それから、財布から新たな金子二両を出して利兵衛に与え、
「キジの心を汲み、商いに精を出し給え」
 と申し、ネコの志を叶えたと言う。
 魚屋と時田氏は、キジに深く感銘を覚えた。たとえネコの身であっても、受けた恩を返そうとしたネコである。結局、それが原因で命を失うこととなったが、極楽往生を願ってやまなかった。
 やがて、埋めていたキジの死骸を掘り起こし、時田氏を喪主として、本所回向院に丁重にほうむることもなった。
 ネコの葬儀は回向院にとってもはじめてのことである。だが、勘定方の偉いおサムライの依頼であり、目立ったこともあり、当時、多くの町人たちが目撃した。
 その時、人は口々に、
「およそ、恩を知らざる者はネコの恩知らずを例えに出すが、このような珍しいネコもいる」
 と、皆、感慨深げであったと言う。『宮川舎漫筆』より。

 この墓は今でも本所回向院にある。法名は〈徳善畜男とくぜんちくお・文化十三年三月十一日命日・時田喜三郎猫の墓〉と彫られていて、近くに義賊鼠小僧の墓もあり、墓参りする者が絶えなかった。
 この猫は〈小判ネコ〉と呼ばれ話題になったそうである。瓦版にも何度も取り上げられ、昔の人は、皆、知っていた。もちろん実話のことであり、墓参りする人もたくさんいた。墓は今でもあるそうだが、縁起を担いでなのか、鼠小僧次郎吉の墓と同じように表面を削り取られている。
 大阪でも、江戸でもネコの恩返しの記録が残されている。大阪では化けネズミと戦い亡くなった。江戸では報恩を誤解されて命を失うこととなった。いずれも徳の高い行為であり、人々に好まれたことは言うまでもない。
 このような徳のことを〈陰徳〉と呼ぶ。人として陰徳は特に大切な物事であり、陰徳を積むから幸福になれるとも信じられていた。その中にあって、死を持って陰徳を積んだネコの物語は末代まで語り継がれた。〈了〉

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