見出し画像

男女平等の話をされるとどうしても悲しくなってしまう

少し前までフェミニストになりたかった。フェミニズムを勉強していて、そのなかで本当に悲しい事実を知ることも多かった。
フェミニズムを応援していて、正直いいことはあんまりなかった。男性がたまに私もフェミニズム支持してますっていうのを見て嬉しくなったくらい。
大抵は過去にあった女性差別を知ったり、フェミニストだと言う人に集まるアンチフェミニズムたちの会話をSNS上で見ていた。
私はそれを眺めていて常に傷ついていた。どんどん苦しくなっていった。

詳しくは言わないけれど、色々あって私はフェミニストになりたいと思っていた気持ちがすっかり薄れて、自分の目で見たものを素直に感じていたいと思った。
一度フェミニズムから離れると、心が毎日穏やかだった。
全ての男性に牙を向けていたのは私たち女性だったと気づいた。

私は女として生まれたから、女としての気持ちしかわからない。
想像の中でしか男性の気持ちを描けないというのは、本当に不安定で、いつ男性を傷つけてしまうかわからないということを知った。
だからこそ、平等でありたいと強く願った。
「女だから」に散々苦しめられてきた私が、「男だから」を押し付けていい理由はどこにもない。そのかわり、「女だから」を押し付けられたら全力で拒否をする。
男や女が理由になるのが嫌いだ、というわけではなくて、そういうのは必要ないから拒否をしていく。

男に向いている仕事は、男しかできないわけではないし、男が全員向いているわけではない。逆も然り。
女に似合う服装は、女しか着てはいけないわけではないし、女が全員似合うというわけではない。無論、逆も然り。

こんな当たり前のことが理解できていないわけではないのに、世の中の動きに飲み込まれていくうち私たちは知らない間に隣の人を差別的な目で見てしまっていたかもしれない。


YouTubeの動画のコメント欄で久しぶりにフェミニズムについての会話を見た。見てしまった、というほうが正しいかもしれない。

「これだから男は」

その文字列を見たとき、それはいけないと脳みそが本能的に察していた。
そのコメントに対する、「これだから女は」とか、「これだからフェミニストは」というコメントたち。
傷つけられたら傷つけ返したい。
自分が生まれ持った性を異性に馬鹿にされたら、異性を馬鹿にしたい。
私も人間だからそんなことくらいはわかる。

だけどなにも解決には向かわないし、性がなんであろうと同じ人間を傷つける言葉をネット上に無責任に発したことをその人たちはわかっているのだろうか?

もうやめてくれ、と、私は思った。
男とか、女とか、自分がどっちとか、どっちでもないとか、そんなもの、いつだってどうでもよかったはずなのに、誰がこんなもの作ったんだ。
と真剣に考えてしまった。神様かもしれないし、生き物として必要だったのかもしれない。どっちだっていいけれど。

昨日一緒に遊んだ男友達が私の胸をチラッと見ては気まずそうに目を逸らしたとき、ああもう、前と同じように会話はできないかもしれないと思った。どうして別の性で生まれてしまったんだろうと思った。なんでみんな異性を意識してしまうんだろうと思った。
その男友達が夕飯のときに私の分のお会計を当たり前のように払ってくれて、お札を渡そうとしたらいらないと言われたとき、どうして自分が食べた分も他の人が払うんだろうと漠然と感じてしまった。
女だから?
私が女として生まれたから?
彼との間に壁のようなものを感じた。それが思ったよりも厚くて高い壁。
どうしてそこにあるのかもわからない壁。


「これだから男は」という類の言葉を発したいなら、「これだから女は」と言われても納得しなくてはいけないだろう。
分かり合えないと知ったうえで生きていかないといけないだろう。

「分かり合えない」という言葉。

そこには諦めが必要なのではなくて、後ろ向きな言葉なのではなくて、分かり合うための前向きな言葉であると、いつか心の底から感じられますよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?