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全体主義? 

沖縄ほにやの共感性

建前では個性の尊重、異文化の礼賛とはいう。

しかし、中身は踊り以外の価値に不寛容。
彼らには自分等より対等でない価値は下に見なし、「ほかにいけ」となり排除対象。しかし、下にみてた価値が変わると、リーダーはそれを都合よくパクリ、自分のものにする。他の人は無意識に手の平返す態度をする。


建前と中身は程遠い。
他人の立場にたてと言うが、彼らは想像性がない。
自分たちの行いが批判されるわけを。彼らは人を抑圧したことに無自覚で、無邪気だから。自分らを被害者と思っている。

沖縄ほにやは創価の価値が土台となる。
個性の尊重、異文化礼賛は建前で、実際は個人の個性を否定し、踊りを楽しむことにすり替える。

又は些細な話でも、自己満足のレッテルしてくるか、封殺する。
だから、女たちは、よさこい踊りに対して共感しない人に対して、ヒステリックになる。ヒステリックになるのは、この踊り団体の先行き、未来のビジョンがあいまいだったからだ。

彼女たちはミーティングによくそれを言っていたが、リーダーの答えは曖昧だった。その不安が、よさこい踊りに共感しない人間に対してヒステリックとなり、それは不安と表裏一体になる。その心理状態にて、踊りへの自己陶酔性に向かう。

沖縄ほにやの女たちの踊りの批評でのダメ出しは、年長主義的だ。そして、踊りの熟練での権威かなにかでの年長主義的な階級だろう。

踊りでの批評でのダメ出し。それ以外の会話での封殺。
この仕組みにより、踊り以外、無関心な人を作り出す。
踊りで楽しんで行けばよかったのかもしれない。

無関心な人を作るには、人の価値を目の前で否定すればよい。そして、ひとつの価値に関心持たせるように仕向けて。そして、全体主義的な人間を作り、マンセー化してくる。

沖縄ほにやのリーダーは沖縄の無関心に穴開けるとか言う。
しかし彼は沖縄の社会性を分析してるか不明。
実際は、メンバーに、よさこい踊りというブランドは「楽しい」と言い、踊り以外の価値に無関心にして、その踊りに動員する事をしていた。

無関心さに穴を開けるどころか、よさこい踊り以外、無関心な人間を作るのみで、さらに無関心にさせている。

創価学会が選挙に人を動員させるやり方ににてる。
だから、リーダーは共感性をメーリングリストで煽ったのだろう。

インストラクターの社会背景

教える側の女たちの中には教師志望の人間もいた。
沖縄では教員は人気の職業だ。公務員の仕事でもあるためか、安定的な仕事に就きたいと考えている物も多い。

インストラクターの女性も上から目線が強かったのは、教員志望が多かった事にもある。同時にそれは、知識なんかは関心なくて、先公という地位にしか関心ないともいえる。相手を支配して、指導する意味で。
教員資格、手にした大学時代の同級生の創価の人間も、生徒を支配したいと言ってた。教員は沖縄では権力者だから、批判されたくないのかもしれない。

感想

感想としては、沖縄ほにやは、高知ほにやへの義務と楽しむことの二重性でなっていた。そして自己満足を下に見てた。個々の満足を否定していたところがある。

その上で踊りに対する楽しさを自己満足でないとしていた。
個のヒエラルキーで各々の感情、感受性が統制されていたのかもしれない。
一時期、リーダーは感受性について拘っていた。よさこい踊りに対する個々の感受性を言っていたのだろう。自己満足がダメならば、よさこい踊りに自己陶酔する行為も自己満足になる。

よさこい踊りのインストラクターの女たちは特権階級に見えてくる。
リーダーは彼女たちに力を与えすぎていた。

共感性は当時メーリングリストでも主張されていたが、実際は煽りに等しかった。インストラクターの女に共感性を煽る女と、挑発を煽る女がいた。どれもよさこい踊りの為の物であった。どちらにしても全体主義の動員されやすいと思う。

今思うと、この団体は、人間の持つ感受性をゆがませているのかもしれない。踊りに自己陶酔して従っている人は別にして。


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