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沖縄における仲間意識

沖縄の人は「仲間」という言葉を言う。強調しすぎる。
一人で動くことを嫌うのもいる。さみしい人をみると、憐れむように「仲間意識は必要だろ?」と言って引き込もうとする。しかし、頼っても無駄な努力になる。この言葉は沖縄では社交辞令だから。犬を追い払うように「しっしっ!」と追い払うことが望ましい。

自分の問題を分析にして行くことの方が、合っている。彼等にはいびつなのだろう。彼らはみんなでみんなでと言って群れたがっては、1人で動くのを避けることとする。あそこの奴で甘え上手な奴はすぐに可愛がられるし、茶目っ気一つでちやほやされているのがいる。自立している人間には苦しい光景だ。ヤレば結婚して離婚して幸せになれるのだから。
沖縄は沖縄で自分らを分析したらいいのにな、と思う。あてにはしないけど。

私にはいい迷惑だ。仲間扱いされてもそこで言論の自由はないのだから。

彼らにとっての仲間意識は、支配する-されるの関係だ。
学生時代にサークルにいたが、最初は和気あいあいしていても、イベントへの参加は義務で、ボスの人の意見に同調しやすく、逆らいにくい。

年長者がいるとさらにこの支配の仕組みは色濃くなる。
故に横の関係に見えても、縦の従属関係が出てくる。時に、人のやる事さえも目の前で否定もしてくる。その年長者は人としてどうかと思う。話が合わない人たちだったのだろう。周囲にいた承認欲求の高い人たちが群がって、異常高に主張していた影響もあるのかもしれない。ボスを賛美しすぎていた。

その後、よさこいの関連サークル。先にいたサークルよりは自由だったが、精神的な意味で自由はなかった。彼らは個性の尊重なんて口では言うが、そんなものはない。踊りに関する個性のみの承認と思う。

図に乗った自分も原因あるが、リトマス紙のようにわかった。人間関係の分析をし始めてて、始めは周りが勝手にチヤホヤしてた。その後墜ちた。その上、話が合わなかった。関係の分析の理論化して話しても、発展途上だったのもあった。それだけならよかったが、彼ら彼女らはよさこい踊りを賛美して、リーダーが賛美絶賛を自慢するように話してて、やりにくかった。関係の分析には無関心なくせに、踊りへの共感や同調をやたらと要求してくる。笑顔して踊る事も求められてて、中にいて客観性は見えなかった。ここでも自分たちの価値に対等でないものを下に見てた。

踊りの人間関係において、踊りを教える側が教えられる側に対して、ズレのダメ出しのみ行う。その伝達性によって、人間関係のヒエラルキーが起きる。この人々にとって踊りは価値で権威。それに対して同調して、陶酔することによって、成り立つ。踊りを教える側が力を持つ。主に女性たちが踊りに肯定される形で高知の踊りを賛美していく。この人たちがトップとなり、下に教えられる側の人間、ダメだしされる人間が下層に行く。

この団体のも価値観は共感するか従属するかのどちらかになるだろう。


これが沖縄での仲間意識となる。
悔しいから、人間関係の分析を記述して、哲学、主に京都学派の哲学の勉強をしていった。当時であった「種の論理」は面白かった。

彼ら、特に後者は実力や具体的に理論化してきたら、手の平返すように、すり寄る態度を黙ったまま、するのが悔しかった。奴らは悔しがることもしない。ほにやよさこいの素晴らしい価値観を賛美していたのにな。個の価値観の何が素晴らしいのだろうか? 賛美絶賛だけで。

なめられた気分だった。やめて批判した。やり過ぎもしたが。

沖縄の人間は時間にいい加減と一般に言われているが、裏を返せば、空間への意識は高い。空間の中で飲んだくれたり、人間関係を埋め込んでダラダラしたり、群れたりして、時間を生産していく。又はその空間の中で支配されたくないから、遅れることに時間を使う。又は空間の占有性に警戒して、回避したりもする。

自分の空間を支配されることに対して、警戒している。拒否すると逆切れするのもいるから。自分の空間に成立している人間関係を埋め込まないと、精神衛生上、成り立たないのだろう。私も使う時間をサークルに従属して時間を浪費して、地獄だった。

時間にはいい加減だが、空間に対しては勤勉になる。学者はこういうことは言わないのだろうか? 聞いたこともない。

学者が書いていれば、ベストセラーになっていただろう。

追記  沖縄よ、人のやってることを、自己満足と言ってくれて、役に立たないと言ってくれてありがとう。おかげで、沖縄時代に作った人間関係の分析や、哲学の勉強は、発展途上だが、探求はまだまだできる。君らのやってることも、役に立たないのでないか? j自分の県を賛美しすぎて。



 

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