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踊り団体 整理 (23)

踊り団体

沖縄ほにやでは、全体的な楽しみがすべてに優先される。
個人の楽しみなど聞きもしない人が多い。
だから、メンバーはよさこい踊りに自己陶酔する。
そして、暖簾元の団体を賛美する。

哲学を独学してて、言論が封殺されるときつい。
沖縄ほにやに言ったが封殺されて、踊りを楽しむことばかり求められて、苦しかった。公的な状況で話したわけでもない。和気あいあいとしている練習時間に言ったら、封殺された。
踊りの練習をしているのに、楽しむことばかり言われてもわからない。

楽しむとは何だろうな?
全体で楽しむことしか求めてなかったのだろうか?

沖縄ほにやをやめてから反発するようになったのは、自分の主体を取り戻すために行った。たとえそれが批判的であっても。

「踊りを楽しむこと」に支配されて、踊りの練習でダメ出しを指摘されてばかりだった。今思うと、自分の話したいことを封殺される一方で、お道理を楽しむことばかり言われて、ここでは個性の尊重などない。なかった。

何回目かのイベントをするときに、雑務作業も多少できたので、イライラ感は少しは解消された。多少のガス抜きされる場面はあったが物足りなかった。その当時、沖縄ほにやのリーダーの権威性が失墜していた時だったから、良かったのだろう。作業の融通がしにくかった。

自分の描いた絵や作った哲学理論の一部が認められもしたが、疑わしかった。なぜなら沖縄ほにやは高知ほにやの価値観を述べることしかしない。その価値観が高いものと主張していた。何度も主張していて嫌だった。(しかし、ここで、自分に湧く直感だけは良かった。哲学の理論を組み立てる上では。)その高知の素晴らしい価値観を代弁して語る事で権威を保ちたかったのかもしれない。

この素晴らしい人々に、理論の断片が受け入れられることがどこか違和感だった。この前まであれだけ高知ほにやの価値観を語っていた。そしてその価値観から人を見下ろすようにしていた。それが手の平返すように、すごいと言うのがいてウザかった。

こんな大したことのない価値観に抑えつけられていたのかと思うと、怒りがこみあげてきた。

「見る人も、踊る人も楽しく」
よくも、まあ素晴らしい言葉を吐いてくれたものと思う。クソくらえと今でも思う。共感性の中で抑え込まれていたと思うと猶更だ。

組織の誰かが「沖縄の無関心さに穴をあける」と言っていた。
私にはこの組織自体が「よさこい踊り以外の価値観に対して無関心」な人を作っていたという気がする。

批判的情動

私がこの団体に対して、批判的になるのは、在籍時の批判を書くこと、抑えつけられていた主体性を吐き出すためにしているのかもしれない。
「一方的」と言われたこともあるが、その人が時にダブルスタンダードに、所属している団体のニーズを求めるのみで、こちらの話、抽象的な話を「無関心」に扱われていた事のいら立ちもあり、踊りの共感性に服従するための物だったのかもしれない。彼らは無自覚と思うが。

これを彼らは自己責任と言うのだろう。
しかし、私に言わせれば、彼らは、よさこい踊り以外無関心なので、彼らの「無関心さ」に対する自己責任なのかもしれない。

「無関心さに穴をあける」と誰かが言っていたが、自分たちの無関心さに穴をあけてもらいたいものと思う。それさえできないなら、「異文化」だの、「個性の尊重」、「共感」など言わないでほしい。

集団的な自己陶酔なんか二度とごめんだ。


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