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仄暗い夜に三人は【二〇〇〇文字の短編小説 #18】

イアンはノーザン・クォーターの一角にあるパブで待っていた。サリーは約束を覚えているだろうか。一カ月ほど前、彼女の二十七回目の誕生日の十九時にここで落ち合おうと伝えた。ただし、もう一度やり直す気があるのなら、という条件つきで。

電気工事士の職を追われて一年が経つ。失業保険暮らしが続く。不安から逃げ出すように夜ごとマンチェスターの街に繰り出し、クラブからクラブへとふらつき歩いた。マリファナを吸い、職のない現実を忘れようとした。朝方にフラットに帰り、テスコで働くサリーと入れ違うようにベッドにもぐり込んだ。

イアン自身もこれでいいと思っていたわけではない。ジョブセンタープラスで仕事を見つけようかとも考えたが、あと一歩が踏み出せず、余計にむしゃくしゃした。

「何でもいいから、そろそろ仕事を見つけたら?」

そう話すサリーに苛立ち、ある晩、イアンは灰皿を投げつけた。サリーは怒り、泣き喚きながら、フラットを出ていってしまった。

薄暗いパブのカウンターの角で、イアンはホークスのジンジャービールをまた頼んだ。酔いが回り、頭がぐるぐると回る。サリーと初めて出会ったときのことを思い出していた。四年前、カフェのコスタで偶然隣の席に座り、ついついブレスレットを褒めたところから会話がはずんだ。何度か会ったあと、サリーが「ねえ、私と付き合わない? 私たちならきっとうまくいくわ」と言ってきた。

イアンはジンジャービールを一気に飲み干す。時計の針は二十一時を過ぎていた。サリーは来ないだろう。イアンにはわかっていた。アルコールとともに体ににじみ込む悲しみを感じながら、イアンは明日荷物をまとめてマンチェスターを出ようと考える。

サリーはロンドンの古びたホテルで、薄暗い灯のもと安いワインを飲んでいた。「寂しい誕生日」とつぶやく自分の声が殺風景な部屋で消えていく。イアンとの約束の時間からもう四時間もたっていた。イアンはもう待っていないはずだわ──。

出会ったころのイアンは素敵だった。学がないのを引け目に感じていたけれど、文学や音楽に詳しく、いろいろな刺激を受けた。二人には手狭なフラットで、よくポップスを聴きながら夕食を食べた。イアンのお気に入りはスコットランドのトラヴィスというバンドで、「Why does it always rain on me?」という曲がヘビーローテーションだった。「俺には『なぜいつも僕に雨が降りかかるんだろう? 十七歳のときに嘘をついたせいなのかな?』なんて美しい歌詞は生まれ変わっても書けないな」と言って、イアンが突然泣き出した夜を思い出す。

けれども、無職になったイアンは急速に色褪せてしまった。濁った瞳で朝方に帰ってくるイアンを見るたびに苛立ちが募り、愛情が冷えていくのを感じた。

サリーがマンチェスターを離れてロンドンに来たのは兄のリチャードに会うためだ。自分の恋愛はさておき、不幸が続くリチャードが心配だった。何日か前に電話で話したときも、返ってきたのは抜け殻のような相槌だけで、顔を合わせて励ましてあげたかった。今日も何度か電話してみたけれど、声を聞くことはできなかった。

サリーは四年前にイアンが褒めてくれたブレスレットにそっと触れる。いつかの誕生日にリチャードがプレゼントしてくれたものだ。明日の朝、リチャードの家を訪れようと考えながら、ワイングラスを空っぽにした。

ちくしょう、なんて残酷な人生なんだ──そう思いながら、リチャードは煙草に火をつける。ロンドンの外れにあるペンジ・イーストの街は夜に沈んでいた。アレクサンドラ・レクリエーション・グラウンドの端の公園にある滑り台の上で、乾いた口にくわえたハムレットの先が蛍の光のように点滅する。

五年前、リリーとの間に生まれた娘のベスは、一カ月もたたずに天に召された。なんとか耐えていたリリーはしかし、その一年後、自ら命を絶った。そして去年の冬、弟のミックが大麻のやり過ぎによる錯乱で交通事故に遭い、帰らぬ人となった。絶望に包まれたままの自分は一カ月前、印刷工の職で肩たたきを受けた。文字どおり、何もかも失った。何日か前に妹のサリーが慰めるような電話をくれたが、死にかけの心は立ち直らなかった。

公園の前のレナード・ロードを少し歩けば、ホリー・トリニティ教会がある。俺はもっと神に救いを求めるべきだったのだろうか。いや、自分は信心深い人間ではない。でも、死んだらリリーにもベスにもミックにも会いたかった。正しく言えば、リリーとベスとミックに会うために、自分は死ぬべきだと考えていた。

ひざの上には昼過ぎに雑貨屋で手に入れたロープが、蛇のようにとぐろを巻いている。リリーと初めて出会ったときのことを懐かしんでは煙草に火をつけ、ベスの小さな手の暖かさを思い出してはライターをかちゃかちゃと鳴らした。絶望のような闇夜に目を凝らし、めぼしい木にあたりをつけた。

この煙草を吸い終わったらやり遂げよう──そう決めながら、滑り台の足元には死んだ昆虫のように見える吸い殻がどんどんたまっていた。リチャードが思い出したように吐く煙が仄暗い闇にとけていく。

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