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オレンジジュースを飲んでいた【二〇〇〇文字の短編小説 #2】

父が白血病でこの世を去るまでの十カ月はまるで夢のようだった。言うなれば悪夢で、何もかもがほの暗くよどんでいた。葬儀が終わってから一カ月以上がたった今も、まだ別の世界に迷い込んだような気がしている。

朝食には急ごしらえのサンドウィッチを食べた。食パンにベーコンとレタスとトマトを挟んだものだ。この間買ったばかりのインスタントコーヒーはおぼろげな苦味が気に入っている。大学で社会学を学ぶために、四国から上京してから始めた一人暮らしはもう板についた。朝のメイクはだいたい十分で切り上げる。どのみち、わたしの顔の仕上がりを気にする人なんて誰もいない。恋人をつくらない生活がずっと続いている。

駅までの道すがら、肩まで伸びた髪がわずらわしくて、そろそろ美容院に行こうと思った。蝉の鳴き声が何度もジッパーを上げ下げする音のように聞こえてくる。今日は会社に行くのをやめた。駅の改札を抜けて、急にいつもとは逆の電車に乗りたくなった。

大学を卒業して特許事務所に就職してから三年が過ぎた。介護用品や医療用診断装置などの商標権取得に関する仕事にはようやく慣れた。スタッフはみんな人当たりが良く、こぢんまりとしたオフィスは別に居心地は悪くない。

四十九日が近づき、わたしは引け目を感じていた。父の葬儀で母と三つ年上の姉のむせび泣きが永遠に続くように思えた一方、わたしは泣かなかった。父が大好きだったのに、涙は一粒も出てこなかった。一人暮らしを始めてから、父と連絡をとることはほとんどなくなった。

父が白血病だとわかって、何度か帰省して、病室を訪れた。抗がん剤の副作用で吐き気や嘔吐に苦しむ父に対して、わたしは大したことは何も言うことができなかった。頭髪が抜け、それでも「最近のビリー・コーガンみたいだろ?」という父の冗談に、どんな表情を向ければいいかわからなかった。

普段とは正反対の電車に揺られ、四駅目で降りた。駅のそばの花壇のひまわりがうなだれていた。

わたしは導かれるように、学生時代の彼氏に別れ話を切り出されたカフェに入った。同じ学部の同級生で、お互いの友人を通してポール・オースターをよく読んでいるという共通点があることがわかった。二年生の夏、大学の図書館でばったり会って、どんな流れだったか「珈琲と紅茶ならどっちが好きか」という話になった。「紅茶かな。色が好きだから」という答えが返ってきて、その人に恋心を抱くようになった。

「それでさ、シーナが妊娠したらしいんだよ」

隣に座るショートボブの女の子が切り出した。向かいに座る眼鏡の男の子が「本当に?」と聞き返す。何年か前のわたしたちもこんなふうに、時にはシリアスな話もした。わたしは二人の話に耳を傾けた。

ショートボブの女の子と眼鏡の男の子は同じ大学に通っていて、どうやら恋人同士らしい。シーナは二人の同級生で、高校生のときから付き合っている彼氏がいる。でも、アルバイト先の雑貨屋の店長とも関係を持っていて、さらには何度か一夜限りの恋を楽しんできた。妊娠検査薬に赤紫のラインが出たものの、誰の子かはわからないという。女の子いわく、シーナは「産みたい」と相談してきたが、親にはまだ伝えることができていない。男の子が「どうするんだろうな」というと、二人の間に沈黙が流れた。

恋人たちの静寂のかたわら、わたしはカフェに流れている音楽に聞き覚えがあることに気づく。建築家の父がよく聴いていた曲だ。スコットランドのオレンジ・ジュースというバンドで、わたしが生まれたころにいちばんよく聴いていたという。特に「You Can't Hide Your Love Forever」というアルバムがお気に入りで、小さなわたしはよく、二頭のいるかが空を舞うジャケットを目にしていた。軽やかな音楽も嫌いじゃなかった。

父は数えきれないほどのレコードを棚に収め、いろんな音楽を聴いていた。あるとき、わたしがオレンジ・ジュースのレコードの穴から右目を覗き込むと、父はほほ笑みながらわたしを抱え上げてくれた。いつもより高い場所にいるわたしは、天井に小さなひびが入っているのに気づいた。

父が白血病でこの世を去るまでの十カ月、わたしは身勝手に苦しんでいた。絶対に言ってはいけないという決意と、自分の身に起きた一大事を隠し続ける罪悪感との間で文字どおり揺れ、ずっとめまいがしていた。真夜中に急に目覚め、胃のなかのものを戻す日を繰り返した。正真正銘の自分勝手な痛みに、お構いなしにもてあそばれ続けていた。月並みな生活を送れていた記憶がほとんどない。

父がのめり込んでいたオレンジ・ジュースの曲を聴きながら、わたしはひそかに子どもをおろした大学四年生の春を思い出していた。誰も知らない過去を永遠に持ち続けるわたしはそのとき、オレンジジュースを飲んでいた。ストローを少し触ると、氷同士がぶつかり合って、風鈴のような音が鳴った。

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