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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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2024年1〜3月を振り返る ・ 映画版


遅ればせながら2024年の1〜3月に映画館で観た映画の感想。並びは観た順。
観たこと前提でネタを割っているので、未見の方は読まれる際にご注意ください。
今までの他映画感想はこちら↓から。




『PERFECT DAYS』

カギ……! 家にカギかけようよ平山さん……!
でもニコが荷物取りに行った時はかかってましたね。あれは一応「自分の物はなくなってもいいけどニコの私物が盗られるのはダメだ」て思っているのか?

物、と言えば、一階の、本来ならダイニング的な空間と思われる場所が完全倉庫になっていて、天井までみっっしりと物が詰まっていたのが印象的でした。それまで描写されてきた、修行者のような、様々なものを切り落とした「平山」の生き方とは大きくすれ違っていて。
ああ、これを隠していたんだな、捨てられないんだな、と思った。平山の日常には、ここにある物は何ひとつ必要じゃない。それなのに彼はそれを後生大事に、ぴっちりと格納してとっておいている。おそらく裕福だった時の名残のような、ソファっぽいものやゴルフクラブのバッグも見える。

その詰め込まれた眺めはどこか地層のようだ。ミルフィーユのように彼の中に層となって存在していて、決して取り去ることはできない。
変わらずにいること、は誰にも不可能で、あれ程きっちりと日々をルーティン通りに繰り返そうとも、毎日毎日、何かが確実に変化していく。その中であの荷物は、どこか「変わらない為の祈り」のようにも見える。
「今度は今度、今は今」という言葉を聞き、あのラストを見ると、もしかしたら彼はついに、あの荷物を捨てることができるのじゃないか、そんな気がする。


それにしてもあの場所、下町ではありますが当然東京。風呂は無いけどトイレも台所もある。となるとやはり家賃は、いくら少なく見積もっても4〜5万はかかりますよな? 
更に駐車場代。まあこれは1万と安めに見て、あわせて6万と仮定。
1ヶ月を30日として、朝のコーヒーを1本120円とみて3600円(平山は休みでも買ってそう)。昼食が牛乳177円に、サンドイッチをミックスサンドとすると297円で、休みの昼も同じものと仮定すると14220円。東京の銭湯価格は520円なので15600円。週一の洗濯が洗濯300円プラス乾燥100円として1600円。夕飯の飲み屋、1600円くらい置いてった様子なので26日分として41600円。週一のママの飲み屋はさすがにもう少し、3000円くらいは使ってるとして12000円。週一のフィルム&現像代が、どうも3000円くらい置いていたのでこちらも12000円。携帯はおそらく格安プランだろうから1300円くらい?(今時、支給携帯でガラケーはないと思うので私物だろう)
更に自動車、タカシが免許持ってるのに原付ってことはアレ会社支給ではないと思われ、軽自動車の年間維持費は大体40万くらいだそうなので、月に約3万ちょっと。それにガソリン代と光熱費。
全部あわせると月に20万近くかかってる計算。
これはなかなかに……一見清貧暮らしに見えるけども。

すごく不思議だったのが、「食」の存在が徹底排除されてるように見えるところ。
この結構な月の経費の多くは食べ物にかかってると思うんですよ。あれだけまめな人なら、昼食用に毎朝コメ炊いておにぎり作るくらいは楽勝に思うんだけども。あのストイックさなら、毎日中身が梅干しとおかかだけでも満足できるだろうし。
毎日の飲み屋でも、映るのは何が入ってるのかよく判らない突き出しと既に空の皿のみ。ママの店でも、カウンターに美味しそうなおかずが並べど出されるのはポテトサラダ。酒は飲んでも食べる描写は無し。姪っ子を「何か食べに行こう」と誘いはしてもそのシーンは無し。クルミっ子をもらっても食べるシーンはやはり無し。神社での昼食も、サンドイッチの具すらよく見えない。

更には平山、家でお茶やコーヒーすら飲まない。こういう「本人は自足しているけれど外から見ると修行僧チック生活」な人って創作には実は割とよく出てくるけれど、大抵の人は「食」は勿論、家で飲むものを結構大事にするイメージがある。たとえティーバッグやインスタントコーヒーであったとしても、丁寧にいれて味わって飲む。けれど平山にはその要素が皆無。
そのせいか、何かこう、家での「くつろぎ感」があまり感じられなかった。日々の作業場所のひとつ、みたいな。
読書時間がくつろぎなんじゃ、と言われそうですが、活字好きの人間としては「本を読んでる時間」て「くつろぎ」とは違うので。周囲が遮断されるから、逆に周囲がどういう場所でもあまり関係なくて、ただ「読書」という行為だけがそこにある、みたいな。レジに持ってく途中で読み始めてしまうところや部屋で読んでる様子見るに、平山もそういうタイプの人っぽく思える。
彼の「家という場所」へのそっけなさは、もしかしたらあの積まれた荷物のせいなのかなあ。
トイレの掃除、つまり「排泄」側の面倒をみることをあれだけ執拗に描きつつ、排泄の大元である「食」がこんなにも取り除かれているのが本当に不思議でした。


好きな映画なんだけど、一箇所、ああ、と思ったのがアヤが平山の頬にキスをするところ。
アヤが出てきた時点で「まさか」とちょっと思いはしたんですけど、「ああ結局これか……」と。
ちょっと今ぱっと具体的なタイトル出てこないんですが、昔のヨーロッパ映画なんかではよく「人生にくたびれたおじさんの前に突然若く美しい女性が現れ、一夜を共にし活力を吹き込み、後腐れなく去っていく」てパターンがあったんですよね。

なお念の為言っておくと、そういう映画が一律にダメと言っているのではなく、映画的説得力で「アリだ」と思えれば何とも思いません。でもこの映画での平山とアヤの交流は、「ぱっと見では繋がっていない世界の人間同士が実は内面に繋がりがあると知った」というものだと思うんですよ。あの音楽と短い会話を通じて、共感とか連帯とか親愛とか感謝とか、性別や年齢や立場を越えた対等なこころの繋がりが生じた。恋愛的に繋がろうとしてくるタカシには全く見出せない「内面の繋がり」を、全く恋愛とは無関係な平山に対しては見つけることができた、そういうシーンだと。
だからあそこは「キス」ではなく、両手での固い握手からのハグ(姪や妹相手と同じ、あくまで友愛の)とか、そういう方向でいってほしかった。あれだと、「若い女性からのキスは高年齢男性にとってご褒美」的意味合いが出ちゃってるのがどうにも(「それは当然ご褒美だ」て意見がきそうですが、そうではなくて、こんな風にこころが繋がった場面から「ご褒美」を与える展開になるのが微妙だ、という話。「ご褒美」なのはそりゃそうだよねと思います(笑))。

……といろいろ言いつつも、好きなキャラです、平山氏。砂の中から小さな桜貝を見つけるように、ともすれば見過ごしてしまう風景やひとの姿からよろこびと充足を見出す。自分で自分の機嫌が取れる人、て本当に良い。そんな「仏」の彼が一度だけ怒り心頭に発するシーンも好きです。
毎朝の掃き掃除の女性もだけど、最初に神社にお昼食べに行った時も、下の道を掃いてる若い男性?っぽい人がいましたね。
平山は一応「給料もらってる仕事」だけども、彼を始めとしてあの掃き掃除の人達、ああいう「自ら行う何ということもないふるまい」が世界中の道端に星のように散りばめられて、この世を美しく保つのだろうな。尊い。

あがたさんが出てるって全く知らなかったので驚いた。そして嬉しかった。あがた森魚のギターで聴く石川さゆりってどんだけ贅沢よ。
個人的には歌ってほしかったけど、流れ的にまあ無理か。バーのママが歌上手いのは(「上手い」のレベルが異次元だけど)看過できても、ただの常連客があの宇宙から降ってきたようなとてつもない声で歌い出したら観客そっちに意識持っていかれちゃうもんね(笑)。



『ラ・メゾン 小説家と娼婦』

ドイツ男ってそんなにフランス女が好きなんですか……?(笑)
ロッシ・デ・パルマが出てるって知らなかった。素晴らしかった。彼女がスクリーンの中にいると、それだけで幸福感に満ちるな。ロッシのつくったトルティージャ、食べてみたい……!

タイトルとチラシ表面のみの前情報で見に行った(裏面あらすじすら見なかった)ので、始まる前は「小説家の人」と「娼婦の人」が別個に出てくる話だと思ってました。そしたら話が始まってすぐに「小説家の人が娼婦をやる話」だと判って、あっそっちか、と。
でもそれはそれで面白そうだ、とすぐ立て直せたんですが、その立て直しが誤っていて、観ている内にあらあら、という気持ちに。何て言うか、もっと「小説家であること」「ものを書くこと」にフォーカスがあたると思ったんですよね。でもそっちに関しての描き込みはほぼ無くて、基本「娼婦界」の話であった。

まあそれは自分の勝手な思い込みだからいいんですが、とは言え、「書くこと」、すなわち彼女が今突入してる娼婦界は、彼女にとって「書く対象である」という視線がすっっぽり抜けているのはちょっと気にかかった。
ドロシー(すごい足長い)が「記者気取りか、あなたのことは信用してない」と言うシーンがあったので「お、これは」とちょっと期待したんですが、そこについてはもうそれだけで、エマ本人が全くひっかかってない様子だったのもちょっと。

原作読んでないので実際はどうなのかは知らないんですが、素性を隠して「ネタの為の体験」としてその場にいる、その為に同僚の個人的事情をいろいろ聞き出そうともする(でも自分のことは話さない)。そういう立場で彼女達とあんな風に感情を分かち合うのはどうなんだとちょっと思ってしまった。打ち明けた上で「オーケー、それでもこうして同じ体験をして同等に接してくれるあなたは確かに仲間よ」て言ってくれるならいいけどもさ。
ラストの方で「男側としてこの世界を見たかった、すましてやってきて女達の品定めをする側で」的なことを言ってるんですが、「書く対象」として見てる自分はある意味「客の男達」と近い視線を持ち合わせている、てことは意識しないといかんのではないかしら。実際の何かをモデルにして書く、というのは、ある程度その対象を「値踏み」し「切り込んでいく」ことであるし、それが相手を傷つけることもある。

ロクデナシ客の相手した後に、泣きながら母親に電話するところでもちょっと拍子抜けした。イヤ、確かに悪いのは男なんだけど、「そういう悪い客は確実に存在する」「だからやめろ」てことは妹も作家の友達も言ってたのに、それスルーしたよね?
母親に対してかなりの確執がある様子も見せてたので、そういう意味でも拍子抜け。なんだ、心底傷ついた時に泣いてすがれる信頼と依存と愛情を持ち合わせているのね。

だがしかし、なんであの客、出禁になってないの? なんか事情があって入れたなら、ドアのすぐ外に待機して中の様子うかがっとくぐらいしてよインゲさん。それに、デリヘルじゃなく自分のところの施設内でいたすのだから、ドア内すぐのところとベッド脇のすぐ手の届く場所に非常ベルボタンくらい付けといてよインゲさん。
それに引き換え医者は本当にジェントルマンだった。イヤ既婚者で風俗来て女の子ダブルでやってるんでそういう意味では全然紳士じゃないんですが、でもジェントルマンだった。いいひと。

昔『トリビアの泉』て雑学紹介番組があったんですが、その中で「古代オリンピックの選手は皆全裸だった」てのがありまして。
それの再現映像で、大変に絶妙なカメラワークで男性局部を映さず競技シーンを見せるのが爆笑につぐ爆笑で非常に面白かったんですが、エマがアメリカ男となさるシーンがまさにこれで、もう内心可笑しくて可笑しくてたまらなかった。流れるような匠の技の隠しっぷり。「安心してください、映ってませんよ!」て空耳が聞こえてきた程でした。
と言っても別に映すのがアウトではなく、冒頭の方から男性のも女性のも映る時はばっちり映ってるんですが。だからこそ「ここだけ何でこんなに華麗に隠すの?」と可笑しさ更に倍。
ほぼ普通に映してるのに、いくつか突然ボカシが入るのも謎だった。あのボカシは日本側で入れているのか、それとももともとなのか。
なんでだ、と首をひねったんですが、もしかして臨戦体制になっているとアウトなんだろうか??



『燈火は消えず』

香港ってネオンそんな取り締まられてるって全然知りませんでした。ネオンびかびかの巨大船、ジャンボ・キングダムが営業終了して水没処理されたのは知ってましたが。
外にいる人間の勝手な気持ちですけれども、本当にもったいないな。取り付け金具の改良とかで何とか安全に続けられないものだろうか。
きっと誰もが思っていることでしょうが、特に漢字がネオンになってるの、すごく良いよね。大好き。

話自体は割とよくある系で、稼ぎを多少ないがしろにしても自分の道を貫く職人(サイモン・ヤム、役所広司と渡辺謙を足して2で割ったようなイケオジ)が亡くなり、その後初めて「弟子」の存在を知った糟糠の妻がふたりで協力して職人の夢だったネオンを完成させる、といういわゆる「ものづくり感動系」。でもひとりひとりのキャラの設定や描き方や配置がとても上手く、じっくりと見られる優れたドラマ劇に仕上がっています。

特に弟子の子、本当に良いですね。社会的に生きづらさを抱えていて、家族にも見捨てられ、やっと見つけた「師匠」も自分を捨てて消えた(実際は亡くなってたんだけど)。命を断とうとしたその瞬間に現れた師匠の妻、彼女にネオンを教え、支えつつ、亡き夫への思いを胸に奮闘する姿に自らも力づけられる。このふたりのバディっぷりが本当に良いです。
最後のネオンで、依頼者の旦那が具体的に何か記憶が戻ったのかどうかを見せないところも良かった。それがどっちだったかなんて小さいことで、このネオンがそこにいた全員の瞳とこころの中に確かに灯った、それこそが素晴らしいよね。

パンフレットの出来が秀逸でした。こんなに優れたパンフに巡り会えるのは本当に年に数回もありません。香港に詳しくない人が知りたいと思う情報と、更に物語の裏事情を深掘って現地に行きたくさせられる情報がぎっしり詰まってる。本当に素晴らしいです。
「香港のネオン事情」「ロケ地を含めた映画でのネオン撮影話」、とりわけ主人公・メイヒョンを演じたシルヴィア・チャン(藤田弓子似)が白い花飾りを髪につけていた理由の解説があったのが本当に良かった。あの意味が判らなくても映画を楽しむことにそこまで大きな影響はないけれど、判ると更に気持ちが深まる。世の映画パンフかくあるべし。




『エル・スール』

初鑑賞。いやあ良かった。
真っ暗な部屋の中に差し込む光が本当に美しい。これどうやって撮ったのか。

ちびエストレーリャと思春期エストレーリャの子が似ててびっくり。本当に「育ったらこうなるだろうな」て顔をしている。勿論メイクや髪で似せる努力はしてると思うけど、まなざしの雰囲気までも似ていて凄いです。
彼女等が入れ替わるシーンも本当に好き。子犬を連れて自転車で走り去り、大きくなった犬と一緒に自転車で戻ってくる。素敵すぎます。

監督ご本人はここで終わらせざるを得なかったことが本当に本当にご不満らしいですが、おそらく世界大多数の人が「いや、これはこれで良し」と思ってると思う(笑)。そりゃ「監督本人が撮った続き」があれば勿論観たいですが、ここで終わるのも十二分に映画として良いよね。想像の中でこそ大きくふくらみはためく、色鮮やかな「南」の景色。プルースト的です。

それにしても冷静に現実的に見ると、パパはちょっと、こころナイーブ過ぎであるとは思う。あれ多分、女の方はもう「ワタシも若い時にはあんなこともあったわね」程度の思い出になってるんじゃないかしら(笑)。
あの屈託を長く抱えて生きてきて、あそこで自らを断たねばならなかった理由は何だろう。それはやっぱり、娘とのあの会話が最後のひと押しになったとしか思えなくて、エストレーリャが何とも気の毒になる。あれから死ぬまでずーっと、「あそこで戻らずにパパの話を聞いていれば」と思い続けるのだろうなあ。娘の人生にそんなもん乗せてはダメよ。やはりナイーブに過ぎる。
ママもあんな気持ちをずっと抱えられたままで添われても、そりゃ優しく尽くし続けたりはできんよね。



『ミツバチのささやき』

スクリーンでは初見。やっぱり暗闇で大きい画面で観るのはいいよね……!

もうさまざまに思うところはあるけれど、やはりアナ・トレント。アナ役が彼女じゃなかったら、この映画はここまで世界中の人々のこころを揺さぶらなかったと思うんですよね。このくろぐろとした、深淵まで覗き込むようなまっすぐなまなざし!

今回これと『エル・スール』を続けて観て、更には『瞳を閉じて』も観て、監督さんは「精神的な繋がりが分断された夫婦」に格別の想いがあるのかなと思った。勿論、内戦の隠喩なんかもあるんだろうけど、こう、「どちらかが相手に言えない秘密を抱え込んだ結果の疎遠」に何か思うところがあるのだろうな。その状態で連れ添い続けるある種の「絆」、そしてその間に育つことで、やはり誰にも言えない、独特の屈託を抱え込んで育つ子供の姿。
ラストのアナのなんといういじらしさと誇り高さよ……!



『哀れなるものたち』

これって「女性の解放や平等」なの……???

いや、映画自体はすごく好きなんですよ。基本的に行き過ぎレベルにグロかったりキッチュだったりするのはそれだけでかなり好きなんです。
でもこれを「偏見から解き放たれて自由に生きる女性の映画」だと言われると「む?」と思う。一番「えっ……」とどん引いたのは、帰ってきたベラがマックスにプロポーズした際の彼の最初の返しが「性病の検査をしたらね」だったこと(ちょっと記憶が正確じゃないのでこの通りの文言じゃないとは思うけど、とにかく検査を勧める発言)。

もうすんごいびっくりした。まあ、これが帰ってきてその場で即プロポーズしての返しだったらまだマシなんですよ。でもそうじゃない。日数が経ってる。
つまりはマックスもゴッドも、売春宿から帰ってきた彼女の健康チェックを、妊娠も含めて一切してない、てことじゃないですか(まあ「ベラ」の肉体成立上「妊娠は無理」てことだったのかもしれないけども)。
で、プロポーズされて初めて、「結婚するなら性病にかかってないかどうか確認する」訳でしょ? 「結婚しない女が性病にかかってたとしても気にしないけど、結婚するなら確認しなくちゃ」てさぁ。

フェリシティの存在も含め、この一言で、「あ、マックスは(ひいてはゴッドも)女性のことを『自分と同じひとりの人間』として尊重もしてないし大事にもしてないんだ」と感じてしまったので、マックスと結ばれゴッドの屋敷に住み続けるベラを「強く自由に生きる女性の物語」と言われても何だかなあ、と思ってしまったのでした。

生きていく上で「性の自由」や「性の愉しみ」を謳歌するのは全然問題ないし、それを生業として食っていこうとするのも別にいい。後者が特に問題になるのは、そこに至る理由が本人の自由意志じゃなかったり(ホストに無茶な借金背負わされたとか)、中間搾取や互いの希望をマッチングしないで行われる行為(SMがOKかどうかとか)であって、そういうのがクリアされた状況で成人同士が互いに希望していて、その国の法律で可能な範囲内の行為であれば外野がどうこういう話でもないし。

でもそれって「知識ありき」ではない? 「対策ゼロでやったら妊娠しちゃうよ」「病気になるかもよ」て知識を一切与えられずに飛び込んで、リスクがっつり背負っちゃったら元も子もない。
彼女は時に深くこころを傷つけられながらも、様々な経験を経て自ら学んで好きな道を掴み取っていくし、それは本当に尊い姿ではあるんだけれど、周囲の男性があんなんでは結局どうもならんのではないの、と思いました。
「女性の自由の映画」であるならば、ラストはマックスとも別れてあの鳥籠のような屋敷を抜け出して、トワネットとフェリシティと三人(なんならプリムも一緒に四人)で広い世界に進出していく方向の方が自分としてはアリかなー。

なお念の為言っておくと、「これはそういう主張の映画である、それを読み取って学びにすべし、とか言われると『えーっ』と思う」というだけの話で、映画そのものは普通に好き。マッド・サイエンティスト大好物です。「自殺した女性を拾ったらお腹に胎児がいたから脳を死体と接続しちゃおう!」てアナタ。好き。キャラとしては出てこないけど、ゴッドのパパも大概だと思いました。サイコパスみに過ぎる。好き。ゴッドのお亡くなりシーンでは泣きました。
それにしてもエマ・ストーン演技上手すぎ……!



『瞳を閉じて』

犬かわいいよ犬……!!!
わんこがかわいい映画は良い映画。

……ということもともかくも、いわゆる「本編」である、「撮影途中で消えた役者を探す話」よりも、「中断されてしまった映画」、『別れのまなざし』が素晴らしくて、「頼むからこっちをすべて撮って見せてください……!」という気持ちになりました。この劇中作、本当に素晴らしかった。冒頭の引き込み方も良いし、ラストの綺麗な締めもいい。
特にポスターにも使われている「娘」の姿が素晴らしい。ざらりと鼈甲の扇を開いて見せる「上海ジェスチャー」の哀しく気高く蠱惑的なこと!


この冒頭とラストの間に、フリオが演じてた役の人が中国に乗り込んで探索を重ね、苦労して娘を見つけ、どう説得してここまで連れてきたかを想像すると、もう見たくて見たくてたまらない。お願いだから『別れのまなざし』を娘役のベネシア・フランコがこれ以上大きくなっちゃう前に撮ってください!!!

そして白眉は「私はアナよ」これ以外にないよね。この一言の為に撮られた映画と言っても過言ではない。
それにしてもアナ・トレント、おそるべき変わらなさ……5歳の時の無垢と可憐さが中に埋まって生き続けているのがはっきり判る。美しい。




『後継者』

何があっても絶対にカーテンを閉じない(就寝時間であろうとも)ラジェンドラハウス……!
インドではその方がお金持ちっぽいとか?? と思いましたが、アールティの実家はやはり超お金持ちっぽかったけど夜はカーテン閉めていた。そうだよね、夜明るくてノーカーテンだとお部屋丸見えよ。

「大将」ヴィジャイの面目躍如。こういう役似合いすぎです。49歳男子でこのかわいさってアリ?
『マスター 先生が来る!』ネタがちらちらあって楽しかった。パパのかかりつけお医者さんが「アーナンド先生」なのは、もしかして『スーパー30 アーナンド先生の教室』から?(どちらの映画もこちら↓の記事に感想あります)

それにしてもパパ、不治の病にかかった上に長男と次男がダメダメ息子だって判った途端、自分が勘当して7年間行方も生死も調べず完全放置していた末っ子に詫びのひとつも入れずに頼るってムシが良すぎじゃない、と正直ちょっと思いました。ハーバード大に自力で行った、てことは、多分進学にも反対してたんでしょうに(地元の大学に行け、とか言うたんではと邪推)。今際の際に一応謝ってたけども。

しかしインド映画あるあるではあるのですが、アールティ、あの長男とは別れた方が良かったよ……。
娘ちゃんがいなくなった時の態度たるや。あの一言だけでも離婚して良いわ。
しかし、妻には冷淡、娘には無関心、とどめによその女と浮気する有様なのに、浮気のことも知ってる娘が、助けられた後にまずパパにすがりつくってどう考えてもおかしくない? てっきりパパ通り越してママに抱きつき、それを見たショックで更生して真人間になるんだとばかり思っていたわ。


ひとつ思うのは、「後継者」としての話がそこそこしっかりあるので、別に無理に恋愛要素入れなくても良かったんじゃないでしょうか。まあラブダンスが重要なのは判るけど、くっついた後にすっかり影が薄くなるインド映画あるある。
田中道子に激似のヒロイン、ラシュミカー・マンダンナ、綺麗でダンスも良かったのに、本当にもったいない。痩せすぎてなくて、縦筋入った腹筋にうっすらと脂肪が乗った、実に良い塩梅のサリー映え体型。好み過ぎる。

ヴィジャイが会社継いで後、「こんな風にやってます」的に歌と共にさーっと流されるシーンで、労働者や地元民に対して福祉的活動してる姿が多いのもインド映画っぽい。ただ「バリバリ有能に働いてます」だけではダメで、「真っ当な経営者は福祉活動も怠ってはならん」という意識が社会にあるんだね(現実にできているかは別として、「理想の超金持ちは義務として行うべき」という意識)。
だがしかし、実家に帰ってきたシーンですごくナチュラルに自分のスーツケースをその場に置いて母親と門をくぐってきたのが微妙でした。「下男が取りに来て運ぶのが当然」と無意識に思ってんのね。特権階級意識。父親や長男・次男はそれでいいけど、この人がそれは役作りとしてダメだと思うなあ。

最初の方に出てくる『Vaa Thalaivaa』、なんか耳に覚えがあるメロディな気がする、と思ってよくよく考えてみたら宮本浩次が高橋一生に書いた『きみに会いたい』だった(笑)。こんなところにインドと日本の共通項が。




『ストリートダンサー』

いやラームさん……? えっ、チョートゥーまでもが……!??
まさか大会にまで出るとは思わなかった。あのダンステクがあったら、普通に若い時から世界中のダンス大会に出て賞金かっさらいまくって移民者支援施設をつくった方がずっと手っ取り早かったんじゃ……?(笑)
とは言え劇的にカッコ良かった。ファンになったよプラブデーヴァー!

とにかくダンス映画だぜということでストーリーはそうややこしくなく、隙あらばダンス。最初っから最後まで踊りっ放し。本当に楽しかった。
特にオープニングクレジットのとこのダンス良いですね。アニメ効果楽しい。ヒロイン達が最初に主人公達に喧嘩売るダンスで、メンバーの役名が入るところも好き。


食べ物投げ合って喧嘩するシーンで、「まあインド映画こういうの好きだしな、でも21世紀にもなっていい加減これはないよなぁ……」と思っていたらあの展開。すごく納得すると共に詫びました。ごめんなさい監督。イナーヤトの後悔もあれでこそ光る。ママのビリヤニ美味しそう。
と、イナーヤトがすこぶる真面目に、固く強い意志で目標に向かっていく姿が輝くだけに、主人公・サヘージのふらふら度合いが目立つ。とは言え、あのダンス仲間素晴らしい友達ですね。あんな風にまっすぐ「お前はこういうところが良くない」て指摘してくれる友達って貴重です。それをちゃんと受け入れるサヘージもまあやっぱり根は良いヤツなんですが。

……だがマークにはまず謝れキミ、とラストダンスバトルの時には思った(笑)。マークって、傲慢でワンマンではあるけど、卑怯でも悪どくもないじゃないですか(卑怯で悪どいのはヒューズを抜いたようなヤツで、それを知って即「戻せ」と言うところも良い)。
マークはただ「勝つ為によそチームから上手いヤツを引き抜いた」だけ。その引き抜きに乗って今までのチームを捨てたのは自分達なんだから、大会途中に無断でチーム変えしたことはちゃんと謝らなきゃダメだよサヘージ。

しかしアムリンダルがサヘージを責めるのは「イヤちょっと待て」と思いました。
サヘージの言う通り、悪いのマネージャー。しかもサヘージはあんなに何度も何度も「違法なことはイヤだ」と断ってるのに、延々つきまとったのも、「ロンドンに着きさえしたら迷惑かけないから」言ったのも自分達なんだから、あそこは「あいつに騙された、あんたの言うことを聞いて国を出るのをやめれば良かった、ここで逢えたのも何かの縁だからどうか助けてくれないか」じゃない?
逃げ隠れる為とはいえターバン外すとは、とびっくりしたけど、最近の若い人はシーク教徒でもターバンつけない人も多いみたいですね。大きな理由は「蒸れるから」。うん、そうだね(笑)。

サヘージ役・ヴァルン・ダワン(魔裟斗と新田真剣佑を足して2で割った感じ)、どっかで見たと思ったら『スチューデント・オブ・ザ・イヤー 狙え! No.1!!』か。いい感じに年食ったなぁ。体の厚みが更にアップしている。
イナーヤト役・シュラッダー・カプール、本当に目が綺麗。まなざしの強さ。『きっと、またあえる』でもすごく良かった(『きっと、またあえる』についての話はこちらの記事↓にもあります)。


恋のライバル、ミア役のノーラー・ファテーヒーがダンスの上手さで抜きん出ていた。手がすごく長くて、ムチみたいにしなやかにピシピシと動くんだよ。それにしてもあんなに腕細く見えるのに、あれで体支えるんだもんなあ。一体あの細さのどこにそんな筋肉が隠れる余地があるのか。
もうちょっと「いかにもインドっぽい」歌とダンスがあっても良かったかなあ。ラストバトルで色粉飛ばしてるみたいに効果入れてたのはホーリーっぽくて好き。




『π デジタルリマスター』

こんな店子はイヤだ……!

1998年て。そんな前か。ざっくりとしか話を覚えてなかったんですが、あの音楽が始まった途端にみるみる記憶が甦りました。成程A24が好きそうな映画です。蟻……!
π、円周率そのものは実はあんまり筋には関係がない。と言うか、「数学」そのものもあまり関係がない(笑)。それっぽい感じの雰囲気映画。でも面白い。好き。リマスターの公開日、3月14日てむっちゃ粋じゃないですか?

酔うかな、と途中で危ぶんだんですが、何故か全然大丈夫でした。ふしぎ。
多分だけど、激しく動いてるように見えながら実はちゃんと計算して編集されているのではないかしら。自分が特に酔いやすいカメラの動きって、相対してる複数人を、話し手が変わるごとにさーっと左右に揺れて映すとか、走ってる時に上下左右に細かく揺れたりとか、つまり「手持ちカメラを雑に動かした時の揺れやブレがそのまんまスクリーンに出てる時」なんですね。『π』のカメラの動きは、ぴゅんぴゅん動いてるように見えても、雑でもなければ、余計なブレもカットしてあるように感じる。だから酔わないんじゃないかな。

しかし単なる数字の羅列や、何てことないメモ書きに「世界の隠された謎」的意味を真剣に追い求めるようになったらろくなことにはならないよ、というのは映画公開より更に前に、ウンベルト・エーコが『フーコーの振り子』でこれでもかと書いてくれてるじゃないですか(笑)。主人公も謎の組織もカバラの人達ももう少し落ち着け。
それにしても主人公、毎日バスや電車で外出してどこで何してんだろう……近所の人達とも顔見知りだし、意外にこれまではちゃんとコミュニケーション取ってた雰囲気だし。アグレッシブ引きこもり。

自分はマックスとは比べ物にならんレベルではありますが、偏頭痛持ちなのでそういう意味でも大変コワい映画でした。あのキシキシ感……(涙)。今にもこっちの頭も痛みだしそうでキリキリします。
すっかり天才ではなくなってしまったけれど、数学の才よりも、もうあんな痛みに苦しまなくて済むならその方が本当に良かったよ、マックス。
だがお隣から漏れる声など聞く様子に、もしかしたら彼女ができてラブラブになったら、あっさり頭痛も数学も捨てられたのかもしれん、とちょっぴり思いました(笑)。




『落下の解剖学』

ちょっと待ってスワン・アルロー(入江陵介似)完全にノーチェックだった……ナニこの滴り落ちる色気……カッコ良すぎにも程がありはしませんか……!???
もう好み過ぎて好み過ぎて、画面にこの人が出てくると目がそこに吸い寄せられて他の部分を殆ど見ることができませんでした。何だこのオーラ。
特に夜、外で焚き火しながらサンドラと話してるところの色気のダダ漏れっぷりが凄かった。サンドラあなたよくこんな人と出逢いながら別の人と結婚できたな……?
とは言え弁護士の腕前は良いのか悪いのか今ひとつ判らなかった。メガネの女性弁護士さん(このキャラむちゃくちゃ好き……!)の方が有能っぽい。

インタビューを受ける妻、その真っ最中にどんどんボリュームの上がっていく音楽、これだけで「夫の性格」「夫と妻の力関係」「互いが互いをどう思っているか」がはっきりくっきりとスクリーン上に現れるのが凄い。スティール・パンの音大好きなのに、この映画一本で危うく嫌いになりかけた(笑)。スティール・パンの音にこんなに神経逆撫でされるなんて初めてです。
ラスト近くまでほぼ、「その場で実際にかかっている音楽」以外のBGMが無いのも良い。サンドラがダニエルと一緒に弾いたショパンの『24の前奏曲 Op.28 第4番ホ短調』が震える程美しくいたましく、エンドクレジットがこれなのも本当に良い。フランスのピアニスト、ベノワ・ダニエルという方の演奏だそうで、抜きん出て素晴らしく、思わずサントラをiTunesで購入しました。


パンフなんかを見るにどうも「これは奥さん、殺ってるね」が正解らしいのですが、物置の壁に血痕があるのは確かに上で殴打した際に血が飛んだ可能性が高い、けど飛び元を逆算したらすごい乗り出してる体勢になる訳で、そしたらあの体格の旦那であの背が低く細い木の柵では、どう考えても折れると思うんですよ。よけてのけぞって殴られてその場から落下して、なら確実に折れるだろう。
万一、完全に折れなかったとしても、木枠にヒビなりセーターの繊維なり、何かが絶対残る筈だよね。
検察側は「あそこから落ちた」と断言してるのに、物置屋根の残留物捜査はしたのに、なんで手すりはしてないの? あと、そこまで乗り出してる相手を殴るには凶器のサイズもそれなりになる筈で、時間的に外に隠しに行く余裕は無いのに見つからなかったのもヘン。

ここは「殺ってるか殺ってないか」をキャラ側も観客側も判断する超重要事項なのに、詰めが甘いのがちょっと残念でした。「真相を曖昧にしておきたい」のだったら、いっそ壁の血痕の話は無い方が良かった。

しかしこんなにも互いに憎しみを積み上げて、それでも別れないのは何故なのか。息子の存在は勿論として、何か、ここまでいっても何かの情があったのか。
車で息子に語る話が印象的でした。「だから自殺の意思があったんだ」とまでもっていけるかは判らないけど、とにかくもうこの人はすっかり擦り切れてしまったんだなあ、というのが判る。
なんて言うか、ただ単に「キツい奥さん」「自分より稼ぐ奥さん」「浮気する奥さん」だったらこんな風には擦り切れなかっただろうと思います(特に2番目なんて自分が旦那なら大喜びなのだが(笑))。何と言ってもここ、「自分には無い、けれど自分が喉から手が出る程欲しかった『才能』がある奥さん」だろう。

教師の職についた、引っ越した、家事と育児とリフォームで超大変、君のわがまま全部我慢した、そういうの皆、確かに事実で、でも言い訳なんだと思う。「だから書けなかった」ていう理由が自分に欲しいんだよね。「そうでなければ自分にだって書けた、書けなかったのは自分のせいじゃなく君のせい」て言えるようにしておきたい。この人多分、奥さんが「なら一年間あなたを自由にしてあげる、だから必ず書き上げて」て言っても書けないと思うんですよ。

「俺のネタを奪った」て言うのも、聞いてたら「いや……?」て思ったし。たかだか書き出し20ページ分の、結末すら決まってない物語なら、そこからいくらでも話は変わるよね。世の中純粋に「初期設定」だけ見たら、同じ話なんててんこもりにある。彼女が書いた後だって、設定は同じで「違う物語」が書けた筈。それができなかったのはきっと、目の前に「自分なんか軽々と超えた才能」がはっきり見えていたからだろう。切ない。

それにしてもスヌープ、たまらん……! 天才犬ですね。アカデミー助演犬賞をあげたい。ちゃんと授賞式に出席してたのもかわいかった。
ラスト、すべてが終わった後に、それまで見向きもしてなかったサンドラにぴたっと寄り添うのが恐ろしくもあいらしい。



『ZOO』

こんな医者はイヤだ……!(笑)
スクリーンで観るの超久しぶり。本当に嬉しい。

「ZOO」の青い電飾看板。「白鳥が飛び出してきた」が原因で起きる、一面に羽の舞う交通事故。深く物語に影を落とす失われた妻達の魂。そこかしこに現れるフェルメールのイメージ。激しく執拗に繰り返される旋律。命の失われた肉に、おびただしい数の虫や微生物がむらがって、生きているかのごとく脈打ちながら腐敗してしぼんでいくその眺め。可能な限り世界を美しい対称にする為に、自分達の姿をかつて母胎の中にいた時のように似通わせていく双子の姿。
もう本当に素晴らしい。言うことが無い。

それにしてもこの双子さん達が、最初はそんな似てる感じじゃないのに話が進むとどんどん似ていくのが本当に凄い&ちょっとこわい。アルバとの間の子供を取られてしまったのがあまりに気の毒で痛ましかった。思えばこの双子、映画開始から基本的にずーっと何かを失い続けているよね。最後にはお互いしか残らなかった。
それにしてもラストショット、俳優根性が炸裂している……!

なお『ピーター・グリーナウェイ レトロスペクティヴ 美を患った魔術師』については、ぜひこちらの記事もあわせてお読みください!



まとめ

さて今期を振り返るに、昔の映画が圧倒的に多い。
昨今は4Kリマスター流行りで、過去の名作が綺麗な映像で観られるのが本当に良いですね。観客としても嬉しいし、大体お客さんの入りが良いので、劇場側としても嬉しいのでは。win-winです。
おかげで昨年四期目で意欲がだいぶ沈んだ分を取り返せたように思う。ありがとう映画館。

そんな訳で今期はそれなりに数を観たのにあまりそんな気がしていないのは、どれもこれも比較的短い映画だったからかしら、と思う。
インド映画はまあ置いとくとして(笑)、『ZOO』は2時間切ってるし、『燈火は消えず』は1時間43分、『ラ・メゾン』『エル・スール』や『ミツバチのささやき』も1時間半程度。『π』なんて1時間半を切っている。
何時間もある長い映画も好きだけど、短い映画はとにかく体が楽でいいな〜。

それでは、次期の口火を切るのは勿論、グリーナウェイですよ!
 
 
 

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