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ウィズ・ザ・ビートルズ

 世の中には「想定される偶然」というものがあると僕は思う。そもそも「偶然」が想定されうるなら、それは厳密に言って「偶然」ではなく、「必然」なのではないかと思うかもしれない。でも、僕が言いたいのはそれとはまた異なる次元での話だ。
 例えとして僕の話をしよう。ひどく退屈なものだし、大した結論さえなければ、警句になりそうな気の利いた一文さえもない。でも多少の我慢をしてほしい。具体例の後に必ずその結論を用意する仏教説話とは異なるのだから。

 僕は両親が運転する車に乗ってある目的地まで向かっていた。某所に美味い鰻屋があるということで、僕と両親の休みが合った日に行くことになったのだ。誰かの運転する車に乗るだなんてずいぶんと久々の経験で、手持ち無沙汰になることは目に見えていたので、僕は『一人称単数』を持って行った。
 『一人称単数』は村上春樹の短編集のなかでも、特別に優れているわけでも面白い傑作なわけでもないが、晩年のシンプルの極地を目指したヘミングウェイに通ずる文体の経年を感じさせる。あらゆる手を使って素材の持つ滋味を最大限に活かしたプロの料理にも似たような味わいがある。こういう感覚って、村上作品を追って読んでいないとわからないものだろう。経年劣化というのは簡単だ、でも年月が奪うものがある一方で、与えるものもあることは忘れてはいけない。じゃなきゃワイナリーは処理されないただの死体安置所だ。
 そのなかであえて僕の好きな作品を挙げるとしたら、「ウィズ・ザ・ビートルズ」になるだろう。この話は正直に言って、よくわからないというか、わかりにくい。冒頭に登場する『ウィズ・ザ・ビートルズ』を抱えた少女が物語の主軸かと思ったら、すぐにフェード・アウトする。そのあとにそのLPが出たザ・ビートルズ盛況の時代に、同じく青春時代を迎えた語り手の話に置き換わる(初めてのガールフレンドであるサヨコの話、サヨコの兄の話…)。
 結局のところ「ウィズ・ザ・ビートルズ」という短編小説は、「『ウィズ・ザ・ビートルズ』を巡る物語」ではなく、「ザ・ビートルズの時代であり、それと並行した青春時代」の物語である。本文中にもあるようにザ・ビートルズは語り手の彼にとって主軸にあったのではなく、あくまでバック・グラウンド・ミュージックだったのだ。

 その鰻屋に着いたとき、僕は「ヤクルトスワローズ詩集」を読んでいるところだった。その鰻屋には11時の開店前から人が並び、整理券を配布していた。僕らは22番目で順番待ちで13時ころになるとのことだった。馬鹿正直にその駐車場で待つわけにもいかないので(僕らの血統は待つことがひどく嫌いなのだ)、僕らは整理券を片手にその店を離れてショッピング・モールで時間を浪費することにした。
 そのショッピング・モールでも当然ながら退屈さを紛らすことができず、むしろ増したような感覚に陥っていた。空腹で今にも死にそうな人が一文無しで屋台街に迷い込んだようなどうしようもない苦痛だった。40分ほど歩いてようやく書店を見つけたときには、最後の希望として光り輝いて見えた。その反動のせいか僕は特に必要でもない『地球の歩き方』をなぜか買った(でもあとで読んでみたら結構面白かった。ブータンが輸出に成功した唯一の工業製品を知っているだろうか?)。
 さらに運が向いてきたのか、タイミングがよかったのか、その日は書店でアウトレット・セールを開催しており、店頭で廃盤・レンタル落ちのDVDやCDの特売をしていた(いちおう書店であるはずなのだけど、そんなメディアの種類についてはあまり気にしない書店らしい)。レコード・ショップみたいに擦れた薄色の木枠にぎっしりとプラスチック・ケースが敷き詰められている光景は思わず胸をときめかせる魔力があった。僕はそこで『狼たちの午後』・『RONIN』・『アナライズ・ユー』・『パニック・ルーム』・『ベンジャミン・バトン』を発見して迷いなく購入した。
 さらに僕は中古CDのほうに移り、顔を埋めるように探していたのだが(まわりにはほとんど人がいなかった)、そのときに「ここで『ウィズ・ザ・ビートルズ』があったら『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』みたいで面白いよな」とふと思った。
 「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」を知らない皆さんのために説明すると、これも『一人称単数』収録の短編で、語り手がでっち上げたバードのアルバムをアメリカのレコード・ショップで偶然にも見つける…というのが大まかな筋だ。僕はこれも事前に読んでいたので、思わず想起せずにはいられなかったのだ。
 そんな偶然が起こるはずもないだろう、皆さんもそう思うはずだ。人生はときに小説よりも奇だが劇的にはできていない。それにザ・ビートルズのアルバムは世の中に無数にあり、そのなかでも特定のアルバムが、ましてやたまたま・・・・立ち寄った田舎のショッピング・モールの書店でたまたま・・・・開催されていたアウトレット・セールで売られているわけはない、と。そう考えるのが普通だし正常なモルモットの反応だ。僕だってその一員だったから、そう思いつつもCDを探しつつ、ザ・ビートルズの名前を見つけて引っ張り上げたとき、思わず呼吸を忘れてしまった。


偶然出会った『ウィズ・ザ・ビートルズ』と、
「ウィズザビートルズ」が収録された『一人称単数』
(小林所有物)


 本当にそこに『ウィズ・ザ・ビートルズ』はいたのだ。しかも丁寧に日本発売版ではなく、輸入盤である(なぜ"しかも"なのかというと、物語のなかで『ウィズ・ザ・ビートルズ』を抱えた少女が持っていたのは日本国内盤ではなくイギリスのオリジナル盤だからだ)。僕はその場で思わずにやけてしまった。マスクをしていなかったら僕は周りの人間から冷ややかな視点で睨まれ、子どもたちはその形相に一人残らず泣き叫んでいただろう。
 僕はもちろんそのCDを大事に抱きかかえてレジに向かった。そんな偶然がなければ僕は『ウィズ・ザ・ビートルズ』を買うことは一生なかっただろう。そもそも僕はザ・ビートルズの熱心なファンではないし、もっと言えばザ・ビートルズだったら『ラバー・ソウル』が一番好きなのだ。それでもこの偶然には僕の内部にある何かを超越するものがあった。今この文章を書きながら『ウィズ・ザ・ビートルズ』を聴いているが、以前聴いたときよりも深く感じ入るように聞こえる。所詮、人間の認知などその程度で揺らぐものである。

 これが僕の言いたい「想定される偶然」である。こういうことが起こりうるんじゃないか、と思い、そしてその「偶然」が偶然・・にも実際に起こるという偶然・・なのだ。その瞬間に理論上の「偶然」が本物の偶然になる。
 偶然ということに関して、一定の人々は冷ややかだ。僕がこんなに文字数を割いて説明をしてもそれを嘘だと勝手に断定して僕を馬鹿にし、彼らは信じようとしない。でも信じたほうがいい、これは現実に起こったことなのだから。
 ちなみに鰻屋は順番が来てから入店し、1時間半ほど待ってようやく鰻重にありつけました。「これまでおれが食べていた鰻は何だったんだ?ドジョウかなんかか?」というくらいに初めて本物の鰻を食べたような感覚がして感動にむち震えながら5分で食べ終えました。美味しかったです。

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