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“アバターというものへの願い”に伴う万感の想い -tvドラマ版『VRおじさんの初恋』全篇を終えて-

夜浅き時間に放送を重ねていた、仮想現実と実社会とを行き来する”人間関係”の物語がありました。
”人間関係”には友愛も恋慕も家族愛も、そして只々他者への様々な想いも全て含まれます。

私達の人間関係は、嘗て眼の前で向き合う事が全ての時代もあった事でしょう。
電話や手紙、そして電子メールやビデオ通話、SNSに代表されるインターネット上での交流が選択肢を広げました。

そして今や
仮想現実/ヴァーチャルリアリティーの世界は遠い未来ではなく現代社会での身近なものとなりました。
そこに人は、アバターと呼ばれる”デジタル世界での肉体”を通して立ち入る事となります。

それは一見単なる見た目だけの”ガワ”のようでいて、少なからずそのデザインにはその人の人生のそこまでの歩みの結実が含まれるはずです。
何故その姿を、電子世界の自分として選んだのか。
そこに居るのは、別の姿であっても確かに自分自身であるということ。
そこに踏み込んだ物語でもありました。

さて。
そうして一般的なそれらを客観視しつつ、私自身はアバターというものに少し別の想いをもって向き合っています。
原作漫画ファンとしてドラマ化をとても楽しみに毎話追っていた身として、作品論の感想とまた別途、そのアバター観、このドラマでの描き方に物凄く感じ入ってしまったものがあり
その視点を添える記事にしたいと思いました。
作品論は既にきっと、多くの方が言葉になさっておいででしょうし。

また、様々な立場の方に響く物語でもあり
原作で初手のファクターであった”ロストジェネレーション世代”はその”様々”のひとつに過ぎない形を見せてくれたのもドラマ版の大きな収穫であったと感じており
その視点も添えたいと思いました。

前置きが長くなりました。
何時もの如く下書きを熟成させ日は経ちましたが
これまで幾つか記事も書いてきたドラマ『VRおじさんの初恋』全篇を観終えての心の底を綴ります。
総括のような記事でありつつ
私事、が多くなるやも知れませんので
ごゆるりとお時間のある際に。

(※有料設定は投げ銭用にて記事自体は全文無料でお読み頂けます
(※今回の記事には放送済のドラマ版最終話までの内容に触れる部分があります
(※著者は原作既読ですが漫画版の結末には触れず語りますのでこれから原作を読まれるつもりの方も安心してお読み下さい


私と漫画実写化

過去記事でも幾度か触れているのですが、私は古くから書籍作品の映像化の際、実写化なら楽しみ/アニメ化警戒派です。
(※勿論どちらも良作/悪作双方あれど、それはあくまで個々の作品の問題です

そもそもが媒体の移し替えです。
特に漫画原作では”絵”として見た目が似ている分タチの悪いアニメ化などこれまでも幾らでもあり
そうした怨嗟のような蓄積からの感覚でもあります。

自身が漫画描きであるがゆえに尚更
漫画とアニメは全く別の媒体/表現方法であると強く申し上げたく。

対して実写化というのは、小説/漫画という紙面媒体で描かれた物語や登場人物を、ロケーションやセットなど主に実際の景色の中で生身の演者さんでフィルムに焼き付ける、非常に興味深いものです。
熱量を持って作られたそれらは、まずビジュアルとしても異なる映像の中に”その作品”が描き出される素晴らしい体験がこれまでも幾つもありました。

この『VRおじさんの初恋』もそうでした。
アニメ化決定!の報であれば、勿論良質な映像化がされるならそれはそれで良いものになったでしょうが、私個人はそこまで楽しみにはしていなかったと思います。
それがドラマ化の報..!
発表されたキャストも、VR世界をCGやアニメでなく実写で描く手法も、全32話という再構築の仕方に大きく期待を持てる構成も、楽しみで仕方ないものでした。

その期待は裏切られず、初回放送後小さな記事も綴りました。

この際まず記事を放つ為に出来るだけ長々ならないよう、この御話が原作からして”人間関係”の御話である事は解りつつ、純粋なフックとして「本当に、只々、”恋物語”なんです。」と書きましたが
そこは私にとって本当に大きなポイントでもありましたし、本当の意味での”恋”は”人間関係”に大きく内包される感情のやりとりであるとも思っている事を補足しておきます。
(『VRおじさんの初恋』というタイトル自体は私は正直今でもあまり好きではなく、イロモノに思われ易い懸念からの添え表現でもありました

(余談ながらドラマ最終話、劇中で「VRおじさん」の単語が出たのはちょっと面白かったです(“概念としての表題”を劇中で拾うタイプのある種のメタ性に弱い


物語を重ねて行く過程で折返し前、直樹が”ホナミ”との実社会での邂逅も経たドラマ第14話放送後に綴った記事もありました。
ここでは正にその”人間関係”に踏み込んで沢山の話を致しました。

是非こちらも御一読頂ければ幸いです。


全話を見届けた今も
このドラマ化企画の実現とここまでの作品として頂けた事に
数多くの”NHKのドラマであったから観てくれた層”にも膨大に届いてもらえた事に
素敵な想いを沢山抱えているのでした。

📀さて
全話録画済ながらパッケージソフトも是非買おうと思っていたのですが
まずはDVD-BOXのみなんですのね..。
まずはというか夜ドラは基本DVDしか出てない作品も多いようで。
(同時期に発表された『虎に翼』はBD/DVD双方で、それも完全版と銘打った商品が予定されているのですが、あちらは連続テレビ小説ですから何だか規模の差が世知辛い感はあるな〜〜..と

そうこうしている内にそのDVDの発売も早くも来月に迫った今頃記事を放つ次第です。


私とロスジェネ

原作漫画の連載終了当時の原作者インタビュー記事とその反響を読んだ際に
”この作品はロスジェネこそに響く” ”ロスジェネは社会に絶望を抱えて生きている世代”といった論調を感じ、私はかなりの抵抗を覚えたものでした。
作者の”暴力とも子”さん自身SNSでもそうした話題をRTされており、果たしてそこが大きな論点のように語られる作品なのだろうかと、自身の感想との隔たりを感じてしまい
また、何より私自身もロスジェネ世代であるが故に、皆がそう感じて生きている世代だと思われているのだろうかとその部分も強く引っ掛かり
一旦原作応援に距離を置いてしまった程でした。
(※今改めて読むとインタビューは実はそこに偏ったものではなかった事に気付くのですが、当時作品そのものに強く感動していた中で読んだ記事で作家さん自身のその視点が置かれていた事に、かえって遠巻きになってしまった感覚があったのでした。作品に心震わされたが故に過敏になっていたと申しますか..

暴力とも子さん御本人の先日の記事内からその当時のインタビューへのリンクがあります▽

ネットで自身の性別や年代に触れる事は避けた方がよいものですが
既にこの事に言及する以上先述してしまっているように、私自身もその世代にあたります。

という訳で
世代当事者として少し私自身の話をしてみようかと思います。

確かに私も前職では新卒から非正規で長年働いてきました。
ですが元々、就職氷河期でどうのといった事に重きを感じない、別の人生観を持って生きてきました。
辛い想いがあったとすれば、その別方向で自分が結果ばかりを追い、自分の積み上げている事を大切に褒めてあげられていなかった事の方でした。

また、これは私が特殊な立ち回りを出来ていた事と職場との相性によるものに過ぎないのでしょうが
非正規ではあれど、一部の正社員より高給を得る評価を得ていて
(※元公務員扱いから民間企業となった某社なのですが、本当に素人企業で評価基準がそもそも穴だらけで、私はズルではなく真っ当にその評価をどうしたら得られるかを考え実行する手腕はあった為に”上手い事やっていた”訳です。
会社も現場も評価基準を何も視えていない酷いもので、評価を取れる訳もない地域担当の班の人達など本当に可哀想でした..)

雇用形態がどうであれ、自身の安定した収入とそれを糧に自分がどこを目指したいかといった生き方を手にしていました。
ですが同時に、そうして望まない仕事で評価されていても嬉しくないと自身を無駄に追い込み勝手に苦しんでいる側面もありました。
周りが”正社員登用の可能性という餌”に振り回されている中で、そんな事など望んでいない生き方をしてきました。

だから
反発でも諦めでも何でもなくて、”そういう世代”と自身を構える必要をまるで感じていなかったのです。
雇用実態の事実は事実として、視点を変えればどう生きるかの選択肢も増えた世界ではないかと感じていたのもありました。
(※上記リンクのインタビュー2記事双方でも実際は記者の方からもそこを話されていたのを読み取れるのですが、当時は「自分もロスジェネで人生を諦めていて..」といった方の感想を暴力さんがRTされていたのを見て(※あくまで一個の感想であったのでしょう)、作家さん自身もロスジェネを一括にそう言ってしまうのだろうか/例えそれが作品の周知への切り口の武器だったとしても となってしまったのかも知れません

面白いもので(というのは語弊も御座いますが)、今や社会全体がそうしたものになっています。
終身雇用制などとうに崩壊し、会社で出世しての安定などむしろ昔の話となり、個人が個人をプロデュースし多様な生き方を選ぶ人もその受け皿もどんどん増えていきました。
それが故に”自由に対して苦しむ”人が生まれるのもまた新しい世界の一つの側面でもありますが
世界は確実に嘗てのものではありませんでした。

ドラマ版『VRおじさんの初恋』では、直樹が特に絶望の世代とは描かれていません。
抱えているこれまでの/この先の漠然とした諦観は原作通りではあれ、それは令和の現代社会において嘗てより幅広い人に共感される表現にもなっていました。
そして実は原作でも、成功した人生でもだからこそのものを抱えていた穂波や、”上手く友人関係の距離感”を自己防御に使っていた葵くんという各々の孤独や生きづらさが描かれており
そこを直樹の会社の人達や飛鳥さんにも広げ、大きく多様な人々の生きづらさと関わり方、だからこそのその先の未来を描けた、現代に沿った伸びしろを魅せてくれたのがドラマ版の本作でもあったと感じています。

要所要所で原作の諸々を拾いながら
ドラマ版はああした軌跡を描いてあの着地を魅せました。
以前の記事でホナミアバターの使用停止に伴う”あの台詞”が無かったのは、むしろ先の展開もしくは最後に持ってくるのではという”期待”に触れていたのですが
いざ進み終わってみると、ドラマ版の感情曲線においてあの台詞は少し劇的になりすぎて浮いてしまった可能性、そして
振り返ればあの展開でいげちゃんのホナミが告げた”別れの台詞”もまた
「ありがとう」
であった事に気付くのでした。

シュークリームの件が描かれていた際に
序盤、パフェのくだりでホナミの方が悪気無く当たり前のようにパフェを上手く作ってしまうくだりを思い出すなどして(同様の事を語られている感想も読んで、あー皆さんそこやっぱ気付くものなんだな..!と何だか仕込んだの私ではないのに嬉しくなってしまったものでした)
本当に全32話を通して物凄い一本の軸を構築されており。

”原作を大切に実写ドラマとして/令和の幅広い物語として再構築する”結実が、ホンも演出も演者も撮り方も構成も、全てが見事であったと改めて振り返るのでした。
ここがロスジェネに焦点となるとまた違ったものになっていたと申しますか
それは原作がシンプルに掘り下げてその悲哀を舞台装置として(※私はあくまで”舞台装置”に捉えており、それは先述の通りの理由あっての事なのですが)あの物語とその顛末が構築されている訳なので
令和のドラマ版としての広がりはあのやりようが十二分に正解であったのだと強く強く感じています。

どちらも、どちらにも各々の世界での小さな心の積み重ねが分岐を生んでの丁寧な物語進行があり
単に原作をなぞるだけではない、可能性の世界観が
そしてそこでも確かに共通したこの御話の根本が描かれていました。

情景的にもですね
ふたりのウエディングドレスのシーンは原作でも本当に印象的だったのですが、ドラマでもあれほどの形で魅せてくれた事に果てしなく心震わされたものでした。。
ここでも顕著だったのが、ホナミのリアクションの差異がきちんと各々の世界の進行に現れていて
ドラマ版でのあの穏やかに内で感極まっているかの反応に、流れを考えずまんま原作通りにしてしまう訳ではない作り込みを感じました。
(その先の激写アオイくんを受けてのナオキが両手で顔を覆ってるあの原作再現度!!☻と、双方相互の良さが沢山沢山滲み出ている素敵な素敵な一連のシーンだったのでした


私とアバター

ドラマ31話/32話での、穂波と直樹が”各々の自身のアバターと会話をする”表現に
私はあまりにも打ち震えたものでした。

原作でも、とあるシーンでとある人物が自身のアバターと寄り添って眠る描写がありましたが、あれも私は涙が止まらなかったものでした。
その、先の表現をドラマで魅せてもらえた想いでした。

著者の新連載作『VRおばさんの暴力』で、先述のドラマ同様の表現が登場した事にまた震えました。
ドラマ版の影響か、元々暴力さんの中にアバターの捉え方としてそうしたものがあったのか。

原作漫画もドラマも、”あそこに居たのは同じ私達”として、アバターは単なるガワではなく 勿論ガワの側面も大きな意味を持った上で 全く別の誰かを演じているのではなく 姿形を変えた”自分自身”である事に強く触れていました。
これは多かれ少なかれどなたにも言える事であると思っていて
例えば日常生活でも衣装や化粧で立ち振舞って変わるもので、そうした経験や印象はVRに馴染みのない方でも想像がつきやすいものではないかと存じます。
ある種その延長線上にあるものがアバターだと私は捉えています。
例え自分からかけ離れたようなものであっても、”その見た目”を選ぶ事には、仮に無自覚にせよ何かしらの自意識が介在しているものと思うのです。
それに伴って心の動きや”触れる場所”が変わるのもまた然り。


私の場合、”アバター”はあくまで大切な創作の子の顕現を目的と、そもそも”自分自身”として設定してはいないものでした。
そうした方も実は多いのかも知れません。
ですが
あくまでそこに居るのは私ではなく”その子”であれど
その子を介しフレンドさんと交流しているのは私自身であったりもする訳で
それはやはり、”その姿”の”その子”を選んでいるのもまた、どこか私の一部とも言えるのではないかという事に
今回思い至った次第です。
(※一部、という表現に語弊があるならば
只単に、”其を選ぶ”事には、当人のそれまでの人生や想いの積み重ねの投影がどこかにあるはずで、それは”自分自身”としての本来のアバターとも通ずるものなのではという
そういった話です)

少しややこしい話をしますが
私は元々実社会で自身の衣服として異性装を好む傾向があれど、異性に成りたい訳ではありません。
そして“私のアバターの子”には、私のそういった事と全く関係なくあの子に似合う服を着せてあげたい想いで日々向き合っています。
“私が着たいが着れない服をデジタル世界のアバターで代替えしてもらっている”といった類のものではない訳です。
私には私のコーデが、あの子にはあの子のコーデがあります。
別個の位置付けなのです。

そうした複雑な想いがあるがゆえに
本作でのアバターとの向き合い方に感じ入るものはあっても、あくまで”自分自身”である本作と、私にとっての”その子”との向き合い方とは、共感性が違うものであるという俯瞰がありました。
ですが
先述のあの表現を持って来られて..。

本作のあの表現は、アバターを”姿の違う自分自身”としながら
単に”自分との対話”ではありませんでした。
向き合う事の出来る別途の、デジタル世界にしか居ない、自身にとっての唯一無二の大切な存在。
その存在とあのように会話するシーンに、スタッフはどういった意図を込めたのでしょうか。

あくまで演出上の、理屈抜きの”シーン”としてのそれだったのかも知れません。
何か スタッフインタビューでもあれば、是非触れて頂きたい、それほど私にとって大きなものでした。

私にとっての“私のアバター”は先述のような位置付けです。
であるがゆえ
本来、本作としても、一般的な意味合いでも
自身の“ガワ”としての、“VR世界での姿”としてのアバターと
劇中であのように会話をする
そんなシーンに
沢山の動揺と感慨があったのでした。

私のアバター観は過去記事でも幾つか触れており、これなど(基本はスト6記事ですが)その辺りを多少掘り下げておりますので宜しければ後程にでも▽


そうそう、アバターといえば
以前自身の記事▽でファンアートを添えて本作のアバターについて語っていた際に、この記事当時では前フリだったために飛鳥さんのアバターが登場するものとして触れていたのですが
実際にはアオイアバターを借りての“VR世界での父親の一面を視せる”流れでしたね。
成程納得、やはりこの作品でのアバターへの視点にはずっと一貫したものがあったと感じました。


私とあなたとインターネット

気付けば放送最終回は遠き5/23。
丁度3ヶ月が経っています。
ネットの世界では常に新鮮さが重要で、こうした記事も最終回の話題に満ちた当時に発信してこそのものがあるはずとは理解はしているのですが
しかしまた
半永久的に残存しどなたでもアクセス出来得るのもまたインターネットです。

この作品や VRや 実社会や また アバターに 様々な想いを抱えておいでの様々な方にいつでも届く事があればと思います。
私も当時読んだことのなかった興味深い記事に何年も経ってふと巡り会うことなんてままありますものね。

VR世界というのもインターネットのひとつです。
嘗ては文章でやりとりするだけの“どこかの誰か”だけであったものがここまでの情報をもって踏み入れる。
本来の言葉の意味は別のものになりますが、今やVRやSNSは“拡張現実”とも言えるのではないかと感じています。
本来の拡張現実(AR)は実社会の中に仮想映像を投影する意味合いですが
言葉だけを取れば、人そのものが踏み入るVRもまた、世界こそ仮想であったとしてもそこは最早人々が暮らす場の広がった先となっているかに思われます。

その世界がなければ出逢うこともなかったやも知れない直樹と穂波と
沢山の人々と
あなたに
願いと祈りを込めて。


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