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VOL.10【 独断と偏見で売れなくなる 】 --- どうして「売れない」のだろう?---

「色々手を尽くしているのですが、売上がさっぱり上がらないのです。」というご相談をいただく度に、私は「本当に、何をやっても売れないのだろうか?」という疑問を抱く。逆に「これはきっと売れる。間違いなく売れる」と断言的に言う人がいたりする。

その度に「売れる、売れるって言うけれど、本当に売れるのか?」と、これまた疑問を抱く。これは、私の性分というか、何というか。私は、この疑問を曖昧のままに放置することが大がつくほどキライなのだ。
 
もともと、私は「算数」が大好きで「解けない問題」が出てくる度に「解けないワケがない」と、その問題にトコトン向き合うといった子供時代を過ごした。算数ドリルには「解けない問題が載っているハズがない」と意地になって わからない算数問題と向き合った。
 
中学校に入ると、1学期にもらった数学の教科書にかじりつき、1ヶ月かけて「上」の教科書の問題を全て解き、2学期になると、また数学の教科書にかじりつき、1ヶ月かけて「下」の教科書の問題を全部解いてしまっていた。新しい数学の教科書が待ち遠しかった。
 
とはいえ「国語」「英語」といった語学と「社会科」といった文化系の科目はカラッキシだめだめ。正直、語学に関しては「劣等感のカタマリ」のような学校時代を過ごしていた。いつも欠点ギリギリ。出来の悪さを数学と理科系の教科でカバーするといった具合。
 
そういう私は大学で、理系の学部に進んだものの「文化系」の【百貨店】という会社に就職してしまった。採用時点では「POSシステムの構築」が仕事だったのだが、それが「顧客の動向分析」という仕事に代わり、ド文系の「マーケティング部」という部署に異動となった。
 
ぐるり全員「経済学部」「経営学部」「政経学部」「文学部」「芸術学部」といった大学の文系の学科を卒業している人ばかり。その部署の仕事をするようになってから、私は、また劣等感に悩ませられ続けることになってしまった。
 
いっしょに仕事をしている人たちが、自信にあふれた独断的な人たちばかりだったからだ。企画を立てた彼らは、しきりの「絶対、この集客広告企画案で良い。間違いない。」という言い方をした。その度に、私はこう思った。

「どうして、そんなに良い・間違いないなどと断定できるのだろう? 私には、まったく、その自信の根拠が理解できない。ここにいる全員、きっと文系の頭で、広告表現などに関する表現能力が高い人たちばかりなんだろう。」
 
そう思うだけで、私のは自分がひねり出した広告企画案に対してさえ、まったく自信が持てなかった。ある時、上司が私の出した広告企画案をホメてくださることがあった。私は「そうですか。良いですか。」と自信なさそうに返事をした。
 
「君は、この広告表現が素晴らしいとは思わないのか?」と何度もホメてくださった。その時、私は改めて、ますます「この案の良さが、自分では、さっぱりわからない」と、その良さを、自分では判断できない、良さがわからない劣等感に陥ってしまった。
 
私には「クリエイティブな感覚」も「アートの感覚」も、いわゆる「芸術」に関わる文化系のセンスがなかった。だからこそ、私が自信を持つためには「ユーザーが、その案を評価してくれる」という「数学的証明」のようにリアルな事実をつかむしかなかった。
 
しかし、そんなことはカンタンにはできなかった。私の劣等感は、かなりの期間続くことになった。私は、いつも議論やミーティングでは「独断的で、決定的な言い方をしてくる文系の人たち」に、やりこめられていた
 
「これでいける」という断定意見に、いつも負ける。議論では負けるのだけれど、心の奥底で「本当に売れるのか?」と、いつも疑いをもっていた。そういうことが数年続いた頃、異動してくる前の「会計システム開発部」から声がかかった。
 
私が「POSシステムを組み上げるために以前配属されていた部署」からだ。百貨店は「売上」を集める「販売部門」「外商部門」がある。この2つは「お金を集める部門」。逆に「お金を使える部門」は「仕入れ」を行う「商品部」と「広告経費」を持っている「マーケティング部」。
 
この時期になって、経費に対する費用対効果を分析できるようにという話になり「マーケティング部門の経費分析のための経費会計システム」を構築することとなり、どちらの部署のこともわかっている私に声がかかったわけだ。
 
「粗利益=《(売上 ー 仕入れ)ー 変動経費 》」
 
「純利益=《(売上 ー 仕入れ)ー 変動経費 》ー 固定費 」

広告には2通りのものがある。たとえば看板広告などは「固定費」と換算されるが「テレビのCM」「新聞広告」、今の時代ならば「バナー広告」といったものは「変動広告費=変動経費」として換算されるべきもの。これを分析するためのシステムを作るという。
 
このシステムは「経理の費目仕分け」とマーケティングの「M.T.コープランド分類」を合体させたようなもの。「トレンド(流行品)」「シーズン」「シーズン・イベント」「ライフスタイル・モチベーション」「ライフステージ・モチベーション」といった背番号を振っていく。
 
お陰様で、私は、そのシステム開発のメンバーとなり「どの広告」を「いくら」使って、どういう売場のどんな商品カテゴリーの販売企画を行うと、実質「いくら利益が出せるのか?」といったことを、誰よりも「詳しく追いかけることができる立場」となった。
 
「経費投資の効果追跡」ができるようになってからも、しばらくの間、議論やミーティングでは「独断的で、決定的な言い方をしてくる文系の人たち」に議論で勝つことはできなかったが、そうやって採用された経費投資効果を徹底的に追跡しまくった
 
私が、その部署で、ほとんど「良い成果を出さない」のに、その部署にい続けられたのは「このシステム開発」をゼロから構築を行うために、相応の時間が必要だったからだろうと思う。そうでなければ、その部署にいる価値さえないような働きしかできていなかった。
 
しかし、不思議なことに「これなら絶対に売れる」と独断的で、決定的な言い方をしていた人たちの広告案では、必ずと行ってよいほど売上は上がっていない。当然、利益さえ出ていないという「事実」が見えるようになってきた
 
そういう実例を、数え切れないほど追いかけまくった。そうこうしている間に「購買心理」や「マーケティング」についての研究を続け、5年もたつころ、いつのまにか私の劣等感は消え失せ、自信のようなものが生まれていた
 
会議になる度、私は「そこにいる普通の文系の人たち」とは、真反対の感覚でいた。絶対主義の人が多い中で、私の感覚は常に「相対主義」を貫いていた。私は「自分はこう思うという独断的な意見を持つこと」を軽蔑するようになっていた。
 
そこで私が見抜いたもの。それは「便利だから売れる」「オシャレな表現だから売れる」といったことを独断的に言う人が用意したものほど「面白いように【売れない】ということ」だった。ユーザー(最終購入者)は、そんなに短絡的で単純ではなかった。
 
私が求めたのは「システム」によって導き出された「数値」だった。ただひたすら「来店者」「外商顧客」は「どう感じているのか?」ということを追求する。「数字」はウソをつかない。なので、抽出された数字を見て売場や広告を見直すという形で事実を追いかけ続けていた。
 
高校まで数学が大好きで、数IIIの延長線上にあった「物理」にハマり、大学で当時コンピュータについて学べる学部が「物理学部」しかなかった時代。私は大学の「物理学科」に進んだ。そこで「事実から方程式を導き出す」といったことを学んでいた。
 
たとえば「1メートルの糸に10グラムの重りをつけて、30度の角度から降り出したもの」が空気抵抗で、いったい何回で完全に止まるのか? といった気の遠くなるような実験集計から空気抵抗を導き出す。
 
振り子が止まるまで、ずーっと 数えている。こんな「くだらないこと」に夢中になれる私にとって「数字から売場のリアルを検証し続ける」といったことは、まるで苦痛にさえならなかった

百貨店という場所には「面白いように色々な種類の商品」が用意されている。あまりに多いので「混沌」としやすいが、背番号をつけた 1つの角度だけを絞り込んで分析していくと、面白いように色々な実態が見えてくるようになっていった。
 
こういう感覚の私からしてみると、世の中には自己中心的で独断的な判断をする人が、あまりにも多くいた。独断で進めるほど、実際は売れないと確証を持つようになっていった。私は、しだいに「売れないクリニックの必要性」を強く感じるようになっていった。  


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