見出し画像

082 タブーなロゴス(言葉・論理)

タブーとは明確にしるしをつけること
 いつの時代のどの人間の社会でも、タブー(禁忌・きんき)というものが存在する。そのタブーとは普通、してはならないこと、禁じられていること、である。
 そもそもタブーはポリネシア語で「明確にしるしをつける」という意味である『ベネッセ表現読解国語辞典』『カレッジクラウン英和辞典』。
 明確にしるしをつけることがタブーなので、明確でなければタブーではないと言うことはできない。この場合、基本的にしるすことはタブーであり、明瞭度はタブーの大きさなのである。明瞭なほどタブーが大きいということだ。要点はしるしをつけるほうにある。そこで、まず「しるしをつける」とは、どういうことか考える。

①「マークすること」区分すること、つまり所有を示すこと。これはテリトリー(なわばり)をマーキングする熊や犬などにみられる動物的な欲求。独占欲。諍(いさか)いを生じさせること。山に登って旗を立てるのも、公共施設の落書きも、私有物に記名するのもマークすることである。

②「書くこと」書くことは、文字であれ絵であれ自分不在でなにかを伝えることである。伝えることは、言葉・知識・論理・経験・思考・理想・目標、自分の考え・感想などである。これらが、どんなに有益な情報であったとしても、書いて伝える場合、伝える人が、伝えられる人のおかれた状況を正確にわかるはずもなく的確な表現で伝えら得ない。多かれ少なかれ、惑わすことになる。口頭なら、相手の表情をみながら確認しながら意志の疎通もできる。大体、いくら丁寧に言葉を連ねても、単語は多義的あり、行間や背後は広すぎて読みきれるはずはない。基本的にはどんな解釈も可能なのだ。どんなものでも書いた当人の意を離れて存在してしまうのである。書き手はその影響について全責任負うものだが、しかし決して全責任を取れるはずもない。それは読み手が考え方を代え、人生に失敗しても成功しても責任は取れない。なにより、知らなかった状態に戻せないし、それに費やした時間も返すことが出来ない。これは、芸術分野の歌・詩・物語などについても同じことが言える。そもそも伝えるということがしるすことしかなかった時代なら書くことだけが対象になるが、どう考えても本旨は他力(自分不在で自分の思いを)で伝えることである。そうなれば、現代のマスコミ(新聞・出版・テレビ・ラジオ・インターネット)、広告・宣伝、教育こういったものすべてが対象になる。無論、本書も例外ではない。ひいては頭の中身をさらすことでもある。

③「サインをすること」契約・約束すること。取引すること。契約とは未来のこと。契約の時に直接対象となる物事を交換していれは、契約書は不要であり、その場で取引は終了する。しかし、明治以降特に戦後は税法上の処理もあって契約書を保管する必要がでた。これは不測の事態があるかもしれないが、大丈夫だろうと思い込みである。結果として、状況が変われば、首を絞められることにもなり、息苦しくなる。

④「痕跡(こんせき)を残すこと」生まれた時を死ぬときとの状態の差、すなわち進歩や退歩、発展・衰退、などの痕跡。インフラの整備。特にメンテナンスフリーの長持ちするものは痕跡が大きい。分解しづらい素材・構造を開発するのも同じ。人生の軌跡を残す記録も含めることもできる。
 
⑤「点数をつけること」評価すること。優劣をつけること。他者との評価・優劣を自覚させてしまうこと。生活を点取りゲームにすること。対象とする行為を受け入れて、その要求に応える度合いでもある。評価者の指示に従う度合いである。評価者のもとで、優劣を競うことであり、評価者への迎合度合いを示すこと。

 このほかにも「しるしをつける」意味はあるだろう。しかしこの5つの項目をもってしても有史以来のほとんどの人間の行為は、タブーになってしまう。
 これが、裸の王様の童話が廃れない理由である。それは、自分こそが裸の王様だと感じている人たちが、関心をつないでいっているのである。

デザインはタブー
 デザインとは、デ・サインである。デは強調の意であり、サインはしるしであり、語源もマークする(しるす)意である。強くしるすことが原意であるデザインとは、タブーの別の言い方なのである。
 デザインとは、しるす意から始まり、目標・計画・設計と意味を発展させてきた。その中でも、外観を設計する、見てくれを設計することを主として使われている。外観とは外の世界との境であり、デザインする物の外枠である。そんな外観を気にするのは本来タブーなのである。
 デザインの本質とは、具体的にデザインをする前、条件整理にある。条件整理がうまくいけば上手いデザインとなる。実際のデザインの作業とは物事の関連付けを逆算することにある。逆算がうまくいけばうまいデザインとなる。この逆算の方は見方によってはすごく小賢しい行為に見える。逆算とは計算の一種である。だからどんな計算であれ、タブーに通じているのである。

タブーとは業でありカルマである
 タブーは禁忌である。そのタブーを破れば普通は罪悪感に悩ませられ、なんらかの罪を犯したような気がする。仏教語で罪の意を持つ語が「業(ごう)」である。「業」は、梵語(ぼんご)のカルマの意訳で「人間の一切の行為や言語・思想」の意がある。このほか「生計」「学業」「職業」といった名詞の意味と、「創業する」「仕事をする」という動詞の意味もあわせ持つ『全訳漢辞海』。これらも広い意味で言えばタブーに通じているということになる。  
そして、なによりも業がタブーなのは、もともと業は「文字を書き記した板」といった意味であるからである『全訳漢辞海』。業のつく概念は多くある。是非もなく自業自得なのである。

タブーとは忌み嫌うこと
 タブーとはいみである。「いみ(忌み)」とは、してはならないこと、嫌うこと。また、かしこしの反対にも「いみ」がある。嫌うとは、自分の嫌いな面を見ること。嫌うことがだめなのは、その部分の自己を拒否しているからである。嫌う理由もいくらかはあるだろうが、それは、本能からではなく、ただの後付の常識である。生まれたばかりの赤ん坊は蛇を気味悪く思わなし、人に対して好き嫌いはないのである。すこし調べれば、今のほとんどの価値観は文明開化から入って、戦後復興後に広まった見立てなのである。

文字に対する抵抗感
 古代の日本は中国から文字が伝わっても、なかなか文字を使わなかったのはなぜか。神道などの原始的宗教にドグマ(教義)がないのはなぜか。また、ソクラテス・ブッタ・孔子・キリスト・モハメットも教義を自ら記していないのはなぜか。
 百姓をしてわかるのは、なるべく機械や農薬を使わず、種を取りいくらか肥料を作って購入物を少なく自力主体で作っても、太陽があって、土があって、水があって、空気があって最も重要なところは人間ではどうしようもなく、全く自然のおかげで作物が出来るということである。自力で作るほど、自力で作れない(農薬や肥料など)ものの価値も上がっていくのである。自力主体の百姓であればこそ、実のればただ自然に感謝したくなるのだ。だから、自力本願の百姓同士であれば、教義などなくても色々なことが共感できるのである。いや、教義がない方が共感できる。あるのは実践・行為の連続のみである。百姓の性根がだれかの弟子では決してできない。
 仏教・儒教・キリスト教・イスラム教は教祖の死後、だいぶ経ったあと、その言行を弟子がまとめ、何度も審議された後に正式に教義とされ公布され、イスラム教を除き、その後も見直しをされている。キリスト教やイスラム教の源流であるユダヤ教であっても、キリスト教が新約聖書を文字化したので、それに対抗するようにユダヤ教が旧約聖書をまとめたという見解もある。同じように孔子はなにも記していないが、弟子が論語(後の儒教)などをまとめたので、それを批判するように老子が老子(のちの道教)を記したのである。日本でも仏教が入って、ただの慣習が神道として確定したのである。対峙するものが出来て、構えができているのである。
 ここで、本当にこれらの師は文字化した経典を見て、これこそ私の教えだというのか疑問が生じる。大体私を信じろという人を人間は本当に信じきることができるのか。ただただ立派な人だから回りが自然に信じたのではないか。それを後世に伝えたいということは理解できるが、それこそ、教祖がもっとも恐れていたことはないか。師弟の関係になれば、対等の関係でなくなり、互いの尊厳が傷つくのである。宗教というのは、互いの尊厳を汚さないでいきることが最たる目的だからである。見習うべきは弟子の書いた文章にあるのではないのである。弟子にそう書かせた人柄であり、振る舞いなのである。それを知るために利用するのが、弟子の文章なのである。弟子の弟子では、本当の師の姿を見れないし、本当に信じることはできない。また哲学者であるアカデメイア(学園)を開いたプラトンの師、一般的に哲学の祖とされるソクラテスも何も書き残していないのである。
 ほんの少し前まで、学ぶとは、真似るであった。習うとは、慣れるであった。学ぶ当人が、師のやり方を見よう見真似で慣れることであった。それを盗むといった。師とするものから教え(ことば)を聞き、理解するのでなく、自発的に行為を盗んだのである。

明確
 明確なほど、わかりやすいほど、読み手は気持ちがいい。かゆいところに手が届けばなお気分がいい。しかし、これこそが危険なものである。変な方向に洗脳される危険性がある。整理立て明確にわかりやすいということは、すでに相手に迎合している文章である。作者の尊厳を汚しており、同時に受けての尊厳をも汚す行為なのである。
 しかし穢れたものをいとおしく思えるときもある。それは自分が穢れているからでしかない。また、穢れにも尊厳があり、その半分は肯定されてしかるべきである。穢れを全く感じさせないものは、人を疲れさせ、淡白にし艶がなく心地悪い。
 明確とはわかりやすさであり、そこで知ってしまうのは自分の程度である。通常高いといわれる難解な言葉と理論は、高いのではなくて深いということである。一般のレベルから見れば、かなり下にあるということである。常々そこまで下がる必要があるのか問う必要がある。頭をさげるというのは自身に対する無礼である、自己の尊厳を汚して得るべき知識と理論であるのか熟慮がいる。
 ただ、明確なものは簡単であり飽きるのも早い。すぐに克服されてしまう。本当に危険なものは、難解なものの方である。

社会の進歩はタブー破り
 タブーを「明確に記すこと」とか「業であること」と通じていると理解すれば、これまで社会が進歩してきたことは、つぎつぎとタブーを犯してきたということになる。そのタブーはなにを意味しているのか。
 タブーとは、他物の尊厳を汚し、ひいては自己尊厳を汚すことでないのか。このタブーをタブーと思えないのは、自己に尊厳の感覚がないからある。しかし尊厳は万物にあるのである。ただ気づいていないというだけの状態である。
 意識的であれ、無意識的であれ、社会の進歩を一方的に完全に是認することは、タブー犯しなのである。快適・便利・安心・相互扶助などを是認すれば、一方で受け手は追い詰められていくのである。この援助が無いと生きられないという潜在的な自覚が強くなるのである。今の社会貢献とは社会を通じた援助交際なのである。ついには自分はそこからぬけられなくなるという恐れになるのである。

タブーの中のタブー
 タブーの中のタブーとは、破ったタブーをそのままにしておくことである。それでは、破られたタブーが日常になってしまい、もはやタブーではなくなってしまうからである。だからタブーは破られても、またもとに戻せば、そのタブーはタブーとして存在できるのである。
 でも、進歩というタブーは、破らても元に戻されることはなく、次々と新たにタブーを破っていく。ここまで重なってしまったタブー破りの歴史では、タブー破りが自体がもはや確固たる伝統となっており、肯定されてしかるべき状態になってしまっており、何人たりとも否定できない状況にある。
 しかしながら、このタブー破りも今では日常化しており、もはやタブー破りの実感はまるでなくなってしまっている。これでは、タブー破りの伝統を穢(けが)していると言える。では、いかにしたらタブー破りを続けることができるのか。ここまで来ると次のステージに登るしかないのである。では次のステージとは何か。
 次のステージとは、すなわちこれからのタブー破りとは、「タブー破り」を破ることなのである。これが新たなるタブー破りへの挑戦であり、タブー破りの伝統をつなげることができる唯一の方法なのである。
 タブー破りを是認している常識からみれば、社会善と個人善の半分は対立する。社会善に即して生きる側からみれば社会善に反して生きる姿は、社会から没落して憐れに見える。しかし、没落した人の側から社会善に即する人々に対しても全く同視するのである。片目しか開いていない時、未成熟な時には自身がどう見られているか見えない。

「タブー破り」破り
 現代のタブーと言えば、他人の視線とか、社会の善(常識で善いとされること・道徳)から逸脱することである。それをすれば、なんだか後ろめたい気分がする。みんながしていることから外れるのはどうもいただけない。面倒であり、心が不安定になる。
 しかし有史以来人間は多くのタブーを犯している。だからいつまでも不安が残るのである。そしてこのタブーを続けていけば、いずれ人間は尊厳が全くなくなったかのようなり、ついには人間を解脱してしまい、機械になるのである。人間が人間を作る機械にするのは人間にとって最大のタブーの一つである。このようなタブー破りを破るにはタブーの中のタブーをもってでしかないのである。それは、明確に記し、書き手と読み手の互いの尊厳を穢すことである。

タブーな私
 社会の主流が決まっていれば、それに反することは一種のタブーである。時代の流れが都会に住み、他人に役立つような社会貢献し、収入を上げ、納税することを主流としていれば、その逆に都会から山村に移住し、土着して百姓をし、炭焼き・家の補修をしていることは、すべて反社会的である。稼ぎが少なくなり、納税額も減少する。都会でがんばっている人たちからみれば、タブーを犯すわがままな人間に写る。
 また、田舎に住む人間からすれば、都落ちした哀れな人間にも写る。やさしい人たちから見れば、傷ついているだろう私の過去はほとんど触れられない。そしてここまでくるのに、妻子を抱え都合五年以上離職していた私は、常識人からみればタブーのような存在になってしまったのである。
 そんなタブーな人間がなにを言ってもしようがないのだが、ただ言えるのは人間はここまでタブー(進歩)を犯しているのだから、人間には最後のタブーを犯す能力があるのを証明されてしまっている、ということである。それは、もっとも反社会的であり、もっとも社会に貢献できる自給自足(なるべく自身のことを自分でする)ほうにも進めることである。個人が社会と適正な距離をとることで、個人の社会依存症も社会の個人依存症から抜け出せるのである。そして、社会も個人も対等な関係を望んでいるが実感としてわかるのである。
 その自給自足とは、自分自身の存在価値を唯一知る方法である。それは裏側にある、万物の価値がわかることに通じるのである。それにもっとも近いのが百姓という生き方なのである。このような時代の流れの中、自給することをこだわり、長きに渡り続けている人たちから見習うべきは、時代に合わせて進歩した農業技術ではなく、もっとも大きなものに対峙しているその気構えの大きさなのである。それはあまりにも自然なので同じような暮しをしてみないと分からない。社会が効率よく生産した品々を買えば安く済むのに、時流に飲まれず、時流と戦っている反骨の精神であり根性なのである。だから百姓を長年している人には肉体と同じだけの精神的な強さを持っているのである。それは、人間が本来持つ自然な強さである。
 仮に万人が百姓になっても社会はまわる。しかしなにも、万人が百姓をしなければならないではない。百姓とは方向である。都会でも多くの老人が孤独死をしている。最後まで誰の助けも借りず、ただ生命を全うさせるまことを実現している。そこには気高きものの美しさがある。哀れであり天晴れな「あはれ」である。
 個人にも社会にも歴史があり、それを否定することは誰にもできない。また、現況を否定するのも意味がない。歴史にも現況にもそれまでの運命にもそれぞれ冒しがたい尊厳がある。ただ、未来については別である。これから選択する時、「なるべく自分のことを自身でする」そういう方向にあるものを選択すればいいだけである。自分/自身率を高める方に。そうすれが、自ずと自身は応えてくれるのである。
 遠い昔に「汝自身を知れ」と明確に記されたタブーには「自分自身を知るための自給自足」という現在のタブーで合理になるのである。「汝自身を知れ」は以前「分を知れ」と訳されていた。自分自身を知れば分を知れるのである。自らが分が自分なのである。

リ・デザインする
 心が古今東西同じなのが人間の限界である。破ったタブーは一枚一枚、パッチワークのように、ちょっとかわいく紡げばいい。ことは、それ以上でも、それ以下でもない。それを目標とし、計画を練り・設計すればいい。それでデザインの合理となる。
 タブーを持ってタブーを制すれば、タブーの合理になるのである。タブーの本質は尊厳穢しである。それを修復する方向にリ・デザインするのである。タブーでないデザインすればタブーなデザインから抜けられるのである。
 時代には最低限合わす必要がある。しかし、それを最低限にしない限り、最も旨味のある今という時代の存在価値は見えない。

はじめのロゴス
 タブーの別の言い方がデザインである。デザインとは設計のことである。設計の根幹にあるのは、逆算を含めた計算することである。
 その計算のみをするために存在しているものがある。それはコンピューターである。和名は電子計算機である。計算だけをしているものである。
 電子計算機はプログラムによって動いているものである。そのプログラムはすべて言語で出来ている。各言語独自の理論で閉じている世界である。
 言語はことばのことであり、ロゴスのことである。それにロゴスにも理論の意がある。ロゴスは言語であり、理論である。その先にはプログラムがあり、計算があり、デザインがあり、タブーに通じているのである。先にある言葉の変わりにロゴスといっても半分は通じてしまうのである。
 ここで、一旦、言語がまだなかった時代に自然の中で生きていると想像してみる。ほとんどのことは、ことばがなくても不自由しない。しかし、どうしても、伝えたいときがある。それは危険の知らせである。 
 だから、はじめのロゴス(ことば)は危険を知らせるものであろう。それは、咄嗟の時に出る「あ」とか「お」とかいったことばかもしれない。はじめのロゴスそのものは不明である。しかし、その意は危険である。なるべく言葉の少なくて済む暮しを望めば分かることである。
 また、タブーとは、してはいけないこと、である。それをするのが危険だからである。タブーとは危険のことである。
 ここでもタブーとロゴスは危険という意で一致するのである。タブーという危険を犯してまではじめに人間がしたこととは、それと同等な危険なことを知らせることであり、ことばという危険なものを発するということなのである。
 ことばが多い人とか、上手いことをいう人をあまり信用してはいけない、意の諺は今も世界各地に残っている。これもロゴスはタブーという教えである。
 ことばは言霊といわれ、信仰の対象でもあった。神聖なものの対象であった。少し前まで、ことばを粗末にしない、あまり発しないことが尊ばれていたのである。ただの音波や光波に意味も感じることは素敵で愉快である反面、本来の存在(実存)から離れる危険な行為なのである。
 長所は短所、短所は長所である。褒められても、等しく貶(けな)されたと構え、貶されても等しく褒められたと構える。理由は後からつけられる。相手のことばをしっかり受け止めているが、全く動じないようになる。どんなことばも届かないところに尊厳はある。尊厳とはことば以前に存在しているからである。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?