神戸金左衛門

福岡▼新聞→放送で記者▼制作ドキュメンタリーに、うちの子/シャッター/SCRATCH/…

神戸金左衛門

福岡▼新聞→放送で記者▼制作ドキュメンタリーに、うちの子/シャッター/SCRATCH/イントレランスの時代▼父を差し置き、note上では代々の「金左衛門」襲名(リアル改名も検討中)▼近代思想史専攻だが、明治以降たかだか150年では「伝統」と認めない復古主義な人。江戸言葉フリーク

マガジン

  • 『雲仙記者青春記』 新米記者が遭遇した、災害報道の現場

    記者になったばかりの新米が、突然の大災害に遭遇。1万人を超える避難住民が出ているのに、経験はゼロ。右往左往しながら地元に住み込み、5年後に災害が終わるまで見届けた記録が、『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』(ジャストシステム95年刊、絶版)だ。 1990年11月17日に噴火した長崎県雲仙・普賢岳は、翌年6月3日に大火砕流を起こし、43人が死亡した。このうち、報道関係者は20人に及ぶ。24歳だった筆者(私)は、交代していて、たまたま難を免れた。 28歳で書いた文章は今読むと、筆致が若すぎて、痛いくらいだ。しかし、嘘は一つもない。 今は放送局に転職し、まもなく55歳になる私だが、この文章の中には、当時の私が冷凍保存されている。 『雲仙記者日記』を、ネット上では『雲仙記者青春記』と改題し、全12章をひと月に2回、メモリアルデーの17日と3日に順次公開していくことにしたい。

  • 障害を持つ息子へ

    2016年7月、障害者殺傷事件が起きました。拘置所で実行犯と面会し、障害者の親として質問を重ね、記者としてニュースやドキュメンタリー番組でお伝えしてきました。 事件から4年、植松聖被告の死刑は確定しましたが、コロナ禍が拡大する中、不寛容(イントレランス)も広がっています。 子供世代が生きていく社会を考えるよすがになれば、と思っています。 制作した全国ニュースの企画:『NEWS23』(2016年8月、2019年5月) ドキュメンタリー:ラジオ『SCRATCH 差別と平成』(2019年12月)、『イントレランスの時代』(テレビ、2020年5月)

  • イントレランスの時代

    RKB毎日放送2020年製作のドキュメンタリー『イントレランスの時代』に関係するマガジンです。 障害者など45人を殺傷したやまゆり園事件の植松聖被告との対話をメインに、ヘイトスピーチ、沖縄差別、歴史の改竄など、現代日本の底に広がりつつある不寛容(イントレランス)を描いてみました。 ▼日本民間放送連盟賞 優秀賞 ▼メディア・アンビシャス大賞 入選 ▼JNNネットワーク協議会賞 ▼ギャラクシー賞 選奨(報道活動部門)=ラジオ・SNS・出版など含む

  • 私の好きな江戸ことば

    名著『江戸語の辞典』から、江戸時代の人々の息づかいが感じられる言葉をピックアップ。ほぼ1日1語のペースで紹介していきます。

  • 江戸の艶っぽい言葉

    様々な「私の好きな江戸ことば」の中で、色・恋・当時の風俗に注目してピックアップした言葉です

最近の記事

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YouTube【障害を持つ息子へ】 優生思想へのカウンターとして

相模原での障害者殺傷事件の3日後、障害を持つ子の親である私がFacebookに書いた文章は、あっという間に広まりました。 植松聖死刑囚が言うように、障害者は「不幸しか生んでいない」わけではありません。障害があることは、当事者にとっては確かに不便ではあるかもしれませんが、必ずしも不幸ではありません。 そして、多くの親は「障害を持つ子供を愛おしく思う気持ち」を持っています。 私の書いた1000文字あまりの文章を歌詞として、大阪の歌手パギやんが曲を付け、歌ってくれました。 そこで私は、「障害を持つ家族を、愛おしいと思う気持ちがこめられた写真をください」と、ネットで呼びかけてみました。締め切りは、事件が起きてからちょうど1年後の、2017年7月26日。「この1年間に撮った写真」もくださいと呼びかけました。67人の子の親が応じてくれました。 コロナ禍が広がる中で、社会に「不寛容」さが広まっています。 死刑判決が確定し、まもなく事件から4年目のあの日が巡ってきます。一人ひとりが名前を持ち、確かな存在感を持って生きている、私たちの家族の姿を見ていただきたいと思います。

    • 大火砕流 30年後の”あとがき” 2021年6月3日

      『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』(1995年、ジャストシステム刊)のネット復刻にあたり、2021年6月3日記す (復刻した本文はこちらから) 28歳のぼくが書いたこときょう6月3日は、大火砕流発生からちょうど30年の日だ。 あの時、24歳だったぼくは、たまたま島原市の取材ポイント「定点」にいなかった。だから、54歳になった今もこうして生きている。 長崎県島原市の取材本部に駆け付けた時、先輩記者からもらったメモには、「CAMERA 石津 車両 斉

      • 番外編 「ヤマが、撮ってみろと言っているようなんだ」 西川清人さんの普賢岳

        『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』(1995年、ジャストシステム刊)のネット復刻にあたり、2021年6月1日記す −−−−−−−− ネット復刻した『雲仙記者青春記』で、引用した普賢岳の写真は、ほとんど西川清人さんが撮影したものだ。陽気な愛すべき人柄で、一緒によく飲んだ。 2000年、49歳の若さで突然亡くなってしまった。今回、西川さんからいただいた写真を引用するにあたり、パートナーの成子さんと、西川写真館を継いだ完くんにご了承いただいた。 今回

        • 『雲仙記者青春記』単行本あとがき 1995年6月3日から

          『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年5月17日あとがき公開) 5回目の「マスコミ雲仙集会」  43人の犠牲者を出した大火砕流から5回目の「6・3」がやってきた。1995年6月3日、ぼくは転勤後初めて、長崎県島原市に向かった。  阪神大震災で被災した神戸市の新聞や民放の記者、テレビ長崎の槌田禎子記者らと並び、「マスコミ雲仙集会」のパネリストとして島原文化会館大ホールのステージに座ると、1カ月前まで慣れ親

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        マガジン

        • 『雲仙記者青春記』 新米記者が遭遇した、災害報道の現場
          16本
        • 障害を持つ息子へ
          19本
        • イントレランスの時代
          12本
        • 私の好きな江戸ことば
          36本
        • 江戸の艶っぽい言葉
          8本
        • 雑誌への寄稿、4年で5本。
          8本

        記事

          『雲仙記者青春記』第12章 1995年4月30日、故郷

          『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年5月3日第12章公開) あるべき災害対策とは 阪神大震災の発生は、災害対策のあり方を洗い直そうとしていた「復興ネットワーク」と、福崎博孝弁護士を中心とした「災害対策法システム研究会」や九州弁護士会連合会(九弁連)の活動にも、大きな影響を与えることになった。  大震災から約1カ月後の2月20日、九弁連は「阪神・淡路大震災についての緊急基本提言」を発表した。日本弁護士連

          『雲仙記者青春記』第12章 1995年4月30日、故郷

          『雲仙記者青春記』第11章 1995年1月17日、阪神大震災が起きた

          『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年4月21日第11章公開) 大地動乱の時代  高度を下げていく飛行機の窓から、民家の屋根を覆うたくさんの青いビニールシートが目に入ってきた。  大阪・伊丹空港はもう近い。1995年1月29日午後。ぼくは西部本社から派遺された阪神大震災の第2次応援部隊の一員として、毎日新聞大阪本社へと向かっていた。  小さな火砕流が時折あるだけの静かな島原の正月は、17日午前5時46

          『雲仙記者青春記』第11章 1995年1月17日、阪神大震災が起きた

          映画評『ぼくと魔法の言葉たち』

          映画のパンフレットに記事を書いたのは、これまでに1回しかありません。とても貴重な機会だったのに、いつだったかが思い出せず・・・ 調べたら、4年前の4月でした。 津久井やまゆり園事件から、まだ1年も経っていなかったのですね。 『ぼくと魔法の言葉たち』(2017年4月公開)3歳になる頃 突然 言葉を失った少年。 彼を救ったのは ディズニー・アニメだった・・・ Amazon Primeで見ることができます。 以下、パンフレットに寄稿した文章です。 『ぼくと魔法の言葉たち』に

          映画評『ぼくと魔法の言葉たち』

          『雲仙記者青春記』第10章 被災地に生きる

          『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年4月3日第10章公開) リレー「記者の目」  牟田さんの件が一区切りすると、すぐに1994年の「6・3」連載企画の打ち合わせが始まった。  戸澤正志、加藤信夫の両デスクも例年通り参加した。議論の末、今年は雲仙取材に関わった5人の記者がそれぞれテーマを分担して、署名記事形式で連載する「普賢岳『記者の目』」という企画に決まった。  常駐したばかりで力がなかった入社2年目、

          『雲仙記者青春記』第10章 被災地に生きる

          『雲仙記者青春記』第9章 1994年4月、牟田隊長事件

          『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年3月17日第9章公開) 警察の災害警備隊 長崎県警島原署の災害警備隊は、隊長の牟田好男警視ら16人の体制だった。このほか、24時間交代で派遣されている約40人の機動隊員が、警備隊の指揮下に入っていた。  牟田隊長は、同期拝命の警官の中でもっとも早く警部に昇進。また、一緒に警部になった中でも最初に警視になり、長崎県警の出世街道のトップを走るエリートだった。  しかし、出

          『雲仙記者青春記』第9章 1994年4月、牟田隊長事件

          『雲仙記者青春記』第8章 島原で出会ったジャーナリストたち

          『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年3月3日第8章公開) 報道人にとっての島原 毎年6月初め、多くの報道関係者が島原市に集まる。「6・3」取材のためだけではない。毎日新聞労働組合が中心になって開く「マスコミ雲仙集会」があるからだ。  約300人の報道関係者が参加する集会は「島原の声を全国に」をテーマに、これまで毎年欠かさず開かれてきた。  日々のニュースに追われる記者は長いスケールの報道が苦手なだけに

          『雲仙記者青春記』第8章 島原で出会ったジャーナリストたち

          『雲仙記者青春記』第7章 謎のボランティア騒動

          『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年2月17日第7章公開) 彼らは、一体何者なのか  話は1年ほど遡る。  前線本部に着任して間もない1992年6月末。あるレストランで、ぼくは近くの席の会話に聞き耳を立てていた。その席にいる人たちに気付かれないよう、背を向けて。  「こんないい話はない。被災者は喜びますよ」  斜め後ろのボックス席には、3人の男性と若い女性が1人。  身を乗り出してしゃべり続けている

          『雲仙記者青春記』第7章 謎のボランティア騒動

          JR線70キロ 110円の旅

          ふと思い立ち、長男かねやんとJRに乗ってみることにした。 香椎(福岡市東区)は、古代からの神社があるので、駅舎もお宮風。 香椎駅からJR鹿児島線で2駅隣、自宅最寄りの箱崎駅までの切符を買う。 障害者は(介助者も)半額なので、1人の電車代は110円だ。 でも、箱崎には行かず、JR香椎線の宇美行きに乗る。 このまま、長旅に出ることにする。 110円で、JRに70キロ乗るつもりだ。 香椎駅、13時17分発。 すぐに郊外の風景になる。 5駅めの長者原駅(粕屋町)に、13時2

          JR線70キロ 110円の旅

          『雲仙記者青春記』第6章 1993年4月28日、立ち直りつつある島原を土石流が叩きのめした

          『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年2月3日第6章公開) けた違いの大土石流 「俺はどうあがいても『雲仙記者』にはなれない。『6・3』の修羅場も知らないしな」  あるとき、ぼくと同じころに島原に赴任した他社の記者が、残念そうに言った。  「雲仙記者」。彼の言い方には、ある種の敬意がにじんでいた。  毎日新聞なら浜野さんだ。彼なしに毎日新聞の普賢岳報道は語れない。社内では「普賢岳のことなら、浜ちゃんに聞

          『雲仙記者青春記』第6章 1993年4月28日、立ち直りつつある島原を土石流が叩きのめした

          『雲仙記者青春記』第5章 太田先生の「終息発言」と、火山学者たち

          『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年1月17日第5章公開) 普賢岳のホームドクター  普賢岳は、世界でも極めて珍しい「非爆発的な噴火様式」の火山だ。噴石で被害が出たのは、たった一度。火砕流は溶岩ドームからの部分的な崩壊でしか発生せず、フィリピンのピナツボ火山のように、噴き上げた高温の火山性噴出物が降下してくるケースはなかった。  だからこそ、火口からわずか7kmの島原市街地が生き延びることができた。普賢

          『雲仙記者青春記』第5章 太田先生の「終息発言」と、火山学者たち

          『雲仙記者青春記』第4章 1992年4月1日、島原前線本部がぼくの仕事場兼住居になった

          『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年1月3日第4章公開) 職住一致の前線本部  1992年4月1日、島原市役所のすぐ近くの毎日新聞島原前線本部が、ぼくの新しい仕事場兼住居になった。  支局やその出先である通信部は社内機構の1つだが、前線本部は事件・事故が発生した現場近くに置かれる臨時の取材拠点である。通常はせいぜい1週間程度で撤収される。  しかし、普賢岳は「異例の長期災害」という枕言葉がかぶせられる

          『雲仙記者青春記』第4章 1992年4月1日、島原前線本部がぼくの仕事場兼住居になった

          『イントレランスの時代』ある大学生の感想①

          ネットで公開しているRKBのドキュメンタリー『イントレランスの時代』を、知人が大学の講義で学生さんに見せたそうです。 寄せられた感想のうち、ある1年生からの文章を私に寄せてくれました。 ーーーーーーーーーー この動画の内容全てが、私が知らない世の中でした。すごく怖くて、思わず涙が出てきました。「憎悪と不寛容」は「人間愛と慈愛を妨げる」。深く考えてみれば、理解できる文章です。 意思疎通ができない人も在日韓国・朝鮮人も名前があり、顔がある。同じ人間という生き物なのに「なんで

          『イントレランスの時代』ある大学生の感想①